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T.明治維新にあたっての教育の変化

@「学制」以前

ア)京都の番組小学校

明治維新後に、京都の人々は早くから一般民衆のための小学校の開設を企画していました。

王政復古の大号令のため、明治政府の施策はまず京都において成されたというのも一因としてあります。

 しかしその後政治の中心が東京に移るに

あたって、明治政府の施策は必然的に東京が中心となりましたが、当時、京都は東京と並ぶほどに

重要な地位にありました。

 そんな中にあって、京都の人々は新しい時代に

あった教育を成すべく、日本の中でも先駆けて

小学校設置をするための動きを始めました。

 この企画に当たったのは後に京都府知事となる、槇村正直でした。

a)京都の番組小学校の特色

京都の小学校は、ただ開設が早かったと言うだけではなく、「学区制」によって組織的に設立された点に大きな特徴があります。

その意味では、明治五年に制定された、先述の「学制」の先駆けとも言えます。

 京都府では明治元年七月に京都市内の各町を区分して町番組を設けることとし、これに基づいて翌月には上京を四十五、下京を四十一の番組に区分して、新たな町組が定められました。 この町組は翌年一月に上京下京共に三十三番組と改められますが、京都の小学校はこの計六十六番組を基礎として、

番組一つ一つに一校ずつ設立されました。

 また、京都の小学校は、大人の教諭所であり、組町の集議の会所なども兼ね、まさに人々の生活の中心とも言うべき物だったのです。

 

        b)京都の番組小学校の形態

    鋭意制作中。上記と同じくらいはあろう。倍あるかも知らん。

 

  イ)東京府の小学校

    東京府は当然のことながら明治政府のお膝元で、もちろんのこと明治政府が発展   のためにもっとも力を入れた地域でもあります。明治二年三月に政府は東京府に対   し、中小学校取調掛を設置するように達しており、これと時期を同じくして、東京   府では小学校設置の計画が始められたそうです。そして東京府は、明治三年六月に   六つの小学校を開設しました。これらは寺社をそのまま用いた急ごしらえの物でし   たが、「幼年生徒有志ノ輩」を入学させるとあり、一般庶民のための小学校という    事が出来ます。しかし、これは明治三年二月の「中小学規則」が定められた後であ   り、この六つの小学校が生まれる以前に廃止された大学句読所の代わりともとるこ   とができ、一般庶民のための小学校という側面だけでなく、大学句読所が受け持っ   ていた更に上級の学校の予備段階としての学習機関という意味の二つが込められて   いた物、と見ることが出来ます。

    そして、明治四年七月には文部科学省が設けられ、この六つの小学校はその管轄   下に入ります。また、明治四年十二月にはこの六校に加えて洋学校と女学校が設立   されました。これらは全て、明治五年の学制発布へと繋がっていきます。

 

 A学制、制定

  ア)学制の起草にあたって

    明治五年に学制が発布され、日本の近代教育制度は発足しました。この頃政府は   富国強兵、殖産興業を基本として、近代日本の建設に心血を注いでいて、特に国民   の教育レベルの向上と新しい時代の指導者の養成を重視していた。

    明治四年に設置された文部省の課題は、いかに全国民を対象とする教育制度を設   けるかというものでした。文部省はこの準備のため、欧米の先進国の教育制度を調   査すると共に、国内の教育の実態調査も開始している。これらの準備の下に「学校   取調掛」が任命され、いよいよ本格的に学制の起草へ着手しました。それは府県の   統廃合が行われ、廃藩置県が意味を持ち始めた頃でした。

    学制取調掛とは、学制の起草委員とも言うべきもので、明治四年十二月二日に十   一人で発足し、同月十九日に一人が追加されて、総勢十二人で学制の起草にあたり   ました。その十二人は、殆どが高名な洋学者で、国学者、または漢学者と見ること   が出来るのは二人だけです。この構成は、いかに政府が欧米の教育制度を自国の教   育に取り入れたかったかということが如実に表れています。

    その後、学制の起草は急速に進められ、明治五年の一月の初め、発足の一ヶ月後   には学制の大綱がまとまっていました。その後は細目についての協議が始まり、そ   の二ヶ月後には早くも学制の原案が出来上がった。

    その内容は、人口を基準にして全国を七もしくは八地区に分けて、大学を各一校、   小学と中学を若干設けること、そして実施する際の順序としては、まず従来の学則   を廃止し、教育の方法を改め、全て新しく定めた学制に準拠させること、などです。   ここには全国民を対象にする教育の構想が示されており、大学区を設定して学区制   を実行する学制の基本方針も明らかにされています。

    この学制原案はまず左院によって審議されたが、左院は全面的にこれを支持。学   制の即時断行を上奏した。しかし、正院において、学制の実施に必要な経費が問題   とされ、結局この問題を解決できず、学制は財政面の裏付けがないまま発布される   ことになりました。この事態の裏には、大蔵省と文部省の対立もあったといわれて   います。

        しかし、この学制はただ早く作り上げることを目的にされた感が強く、何人かで   分担して原案の執筆を担当したと思われ、所々で「小学」と「小学校」が同じよう   に使われていたりしています。これは、委員間の不十分な審議が現れた結果とも言   えましょう。

  イ)学制施行

    学制は明治五年八月に施行され、それと同時に各府県に、学制本文に学制の趣旨   を述べた太政官布告を添えて、それを学制布達として送付しました。その内容は、   まず太政官布告の後、今まで各府県が設立した独自の学校はいったん悉く廃止し、   学制に倣って学校を建てよとの内容の文部省布達第十三号、その後に学制の本文、   という物でした。

    その中において、学制序文は、学制の基本理念を明示した物でした。そこには、   新しく全校に学校を設立する主旨、また学校で学ぶ学問の意義、そして今までの儒   教に基づく学問ではなく、近代思想による学問である、ということが示されていま   した。従来は学問は武士以上がする物で、庶民及び婦女子がする物ではありません   でした。その頃は学問は国のためにする物とされていましたが、学制の施行に伴っ   て、学校のあり方は身を立てるための学問を教える場所、という形に変化しました。    しかし、学制施行直後の学校で成された教育は、必ずしも一般の生活に役立つよ   うな物ではありませんでした。

    ちなみに、学制序文に示される教育思想は、欧米の近代思想であり、特に実学主   義の思想が中心であったそうです。誰が書いたのかは明らかではないのですが、そ   の思想が丁度福沢諭吉の「学問のススメ」に似通っており、福沢もしくはそれに近   しい人の文だと考えられています。

  ウ)学制の内容

    学制は明治五年八月に発布された当時は百九章、明治六年七月には二百十三章ま   で追加されました。

    学制はまず第一条で、中央教育行政機関として文部省を設置されていると言うこ   とを明記しています。

    第二条から第七条は、「学区制」について定めています。全国を八大学区に区分、   一大学区を三中学区、一中学区を二百十小学区に区分している。これは、全国民を   対象とする教育組織として、とても雄大な構想であるといえます。

    しかし、この構想は完全な形で実ることはなく、明治六年四月、学制が各府県で   実施されるとほぼ時を同じくして、全国を分割する大学区の数が八大学区から七大   学区へ改められます。また、結局中学区と小学区は地方官が土地の広さと人口を見   て設置されることとなりました。

    また、学制の学区は学校設置の単位であると共に、教育行政の区画単位として定   められた物でもありました。このため、第八章から第十九章までは学区制に基づい   た教育行政組織について定めています。まず、各大学区の大学本部に「督学局」を   置くこととし、それを大学区内の教育行政を統轄する機関として定めました。また、   中学区には「学区取締」を十名から十二、三名置くこととしました。

    しかしながら、この「教育行政」という面では、学制は失敗と終わってしまうの   です。

 

    学制における教育体系は、今までのような藩校と寺子屋という二重構造ではなく、   全国民を対象とする単一系統の教育体系を目指した物でした。

    第二十章から第三十九章までは学校について定めています。これによれば、学校   を小学、中学、大学の三段階とし、年限については小学校は下等四年、上等四年、   中学校は下等三年、上等三年と定め、大学に年限は定めていませんでした。

    まず小学校については、全国民は就学する義務があると定めてられています。そ   の小学校の種類としては、尋常小学というもっとも一般的な物の他に、女児小学、   村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学がありました。また、先に記した下等小   学は六歳から九歳まで、上等小学は十歳から十三才までと定められていましたが、   明治八年一月の文部省布達によって、義務教育とも言えるこの小学の就学年齢は満   六才から満十三才までの八年間と明確に定められました。

    尋常小学の授業内容としては、明治五年九月の小学教則によって、授業の時間数、   教科書、教授内容などが定められ、また同時に下等小学、上等小学共に半年ごとに   昇級試験がある、八級制と定められました。結構、この昇級試験で落第する生徒は   多かったそうです。しかし、この規則によらない「変則小学」も認められていまし   た。

    中学については、明治三年の中小学規則が専門学を教授する所としていた事に対   し、普通の学科を教授するところと改められています。

    大学については、「高尚の初学を教える専門家の学校である」とし、その学科とし   て、理学、科学、法学、医学、数理学の五科をあげている。

    師範学校については、小学教則とその教授法を教授するところであると定められ   ていて、この師範学校の設置は小学校の教育を整えるために急務であるとされ、そ   の速やかな設置と、小学校教員の各地への配給が求められていました。

    そのほかにも、農業、商業、工業などの専門学校、外国語学校、外国人教師によ   る医学校や中学などが教育体制の中に含まれていました。

    

    第四十章から第四十七章までは教師について定められていて、小学校教員は男女   ともに二十歳以上で、中学校もしくは師範学校の卒業免状を有する者、中学校教員   は二十五才以上で大学免状を有する者、大学校教員は学士の称号を有する者と定め   ている。生徒の進級試験についても定められていて、進級試験で優秀な成績を残し   た者には賞状や賞品を与えることも定められていました。

    また、今考えれば海外留学生というものは学校制度と直接関係のある物ではあり   ませんが、西洋教育を取り入れることを最優先課題としていたこの頃に日本の教育   からすると、日本政府が特に海外留学生派遣に力を入れたということにも頷けます。

    第八十九章から第百九章までは学費について定められています。発布当初の学制   はここまでだったということになります。これによれば、本来学費は民間が出す物   であるが、現在は時勢がまだそこまで至っておらず、また教育の普及が急務である   から一部官金も投入する、ということになっています。官金の使い道としては、外   国人教師に関する経費、大学校の経費、中学校の経費、生徒に対する給食貸費、海   外留学生のための費用、そして地方への交付金があげられています。

    学費については、大学は基本的には一月七円五十銭で、中学は基本的に五円五十   銭、小学校は一月五十銭と定められています。しかし、この高額を納めることは到   底不可能であり、小学校は一銭や二銭程度の授業料で、全額を納付しない人も多か   ったそうです。

    これまであげた百九章まで以外には、神官僧侶学校のこと、卒業証書の書式、官   立学校設立願及び私学、私塾、家塾等の開業願の手続きと文例、学士の称号などに   ついて規定されています。

  エ)学制の実施

    学制はあくまで教育組織全般についての企画を示した物であり、文部省もすぐに   はそれを実施できるとは考えていませんでした。そのため、文部省はまず小学校の   設立に力を入れました。その後に段階的に上位の学校を整備していき、最終的に全   てを整備するというのが基本計画でした。また小学校を整備する上で重要な師範学   校も、小学校とほぼ同等の優先度で整備されました。

    学制が発布されたのは何度も述べているように明治五年八月ですが、直ちに実施   されたわけではなく、まず各府県で学区を定め、そこに学区取締を置き、小学校の   設立を始めたのは明治六年四月頃だといわれています。これは、先に述べた学校設   立のための地方交付金の交付の目処がこの頃についたからであると思われます。

    また、先に述べた督学局と学区取締は、まず督学局は結局設けられずに至らず、   大学区の教育行政機能は名ばかりの物となりました。その後、第一大学区にのみ設   けられた後、文部省内に全大学区の督学局をまとめるような形で各大学区合併督学   局が設けられ、結局は督学局として文部省の一つの部署となっています。学区取締   は、定められた数より圧倒的に少ない数しかおらず、給料も低いにもかかわらず、   その任務はあまりに過酷でした。

    また、学区は中学区は人口十三万、小学区は人口六百に対して一人と定められて   いましたが、むろん六百人で一つの小学校を支えるのは非常に困難なことであり、   結局は文部省から複数の校区で一つの小学校を設立することが認められたため、複   数の校区で小学校を設立するところが多かったそうです。

    小学校は全国に多数が設立されましたが、その多くは寺子屋、私塾、郷学校など   を母体に設立されました。その占める割合は寺社、民家を学校とした割合である七   十三%にほぼ等しく、新築の校舎は十三%しかありませんでした。更に教員数の不   足を物語る資料として、教師が一人しかいない学校が五十九%、二人であっても二   十二%、合計すると八十一%という資料があります。これは、基本的な教科といえ   る読み書き算盤の一つ一つを専門とする教師を当てられていない学校が八十一%も   あるという事実を表しており、明治初期の教員不足を如実に物語る資料といえまし   ょう。

    ここに述べたとおり、いきなり小学校を設立するというのは非常に困難なことで   あり、愛知県や岐阜県においては、まず義校という学校を設立し、それから小学校   に移行したりという策も取られました。

    また、小学校が整備されても、児童を就学させるというのは当面の課題でした。   江戸時代の末期にあっても寺子屋に通学する生徒はごく少数であり、また多くは短   期間にわたって読み書き算盤を教わっていただけでした。この頃一般的に庶民は勉   強する必要無しとされており、学制と一般民衆の認識の間には大きな隔たりがあり   ました。これを何とか改善するため、先の学区取締が奔走することとなります。

    しかし、結局入学してもすぐに自主退学する者がとても多く、結局就学率は余り   上がりませんでした。

    また、町村民を代表して学校の運営にあたった人々を学校役員といい、この職に   関しては学制においては何ら規定されていないのですが、半ば必然的に発生し、学   校の設立や就学の督励などにあたりました。

    また、先に述べたとおり学制で定められた小学校の学費はとても高いものであり、   仮に値下げしても授業料の徴収はとても困難でした。よって、どうしても地方交付   金に頼らざるを得ないのですが、それも少額でした。なので、結局小学校の財源は   学区内集金と寄付金に頼るしかありませんでした。この寄付金と集金だけで五十%   を超えているという資料が小学校の財政の苦しさを物語っています。

    また、学制に対する批判も絶えませんでした。今まで述べてきたマイナス要素の   他に、徴兵令などの政府の政策に対する不満が重なって、その不満が一番近い行政   である学校に向いたのは仕方のないことかも知れません。しかし、あまりに西洋教   育を理想視する余り日本の実情に沿っていなかったのもまた事実で、この後、学制   は廃止され、代わりに教育令が公布されることとなるのです。

  オ)東京大学の設立

    今においても最高学府といえる東京大学。その前身は、東京府に設置された文部   省直轄の中学校である南校と東校です。この二つは学制制定当時は最高学府として   の地位を確固たる物としていたのですが、あまりにまだ程度は低く、学制発布後に   この二つは東京開成学校及び東京医学校とされ、明治十年四月にこれを合併して初   めて東京大学が誕生しました。この設立当初の東京大学には四つの学部が存在し、   それは法学部、文学部、理学部、医学部の四つだったのですが、東京開成高校が源   流である法、文、理の各学部と東京医学校が源流である医学部はそれぞれ別の学校   として機能していました。このように分裂して船出の日を迎えた東京大学でしたが、   明治十九年の帝国大学設立にあたって、やっと統一を成し遂げることとなります。

  カ)田中不二麻呂とダビット・モルレー

    学制の実施にあたって、その中心にいたのがこの二人、田中とモルレーでした。   田中は明治四年に文部大丞に任ぜられ、岩倉使節団に理事官として同行し、欧米各   国の教育を見て回り、その時に米国において文部省顧問として招聘しようとされた   のがモルレーです。教科書には学制は初代文部卿大木喬任が実施したものと書かれ   ている事が多いですが、実際は田中が中心となっていたことは間違いありません。

    田中はヨーロッパにおいては特にドイツの教育に注目をし、またその後に明治九   年、米国の独立百周年記念万国博覧会を良い機会としてアメリカに渡り、アメリカ   の地方分権的な教育制度が世界において最も優れていると考え、そのアメリカの教   育制度を元に教育令の立案に着手しました。ちなみに、実際に学制が制定された    ときには岩倉使節団と共にいたため起草などには関与していません。その後の火消   しにあたった、という方が正しいです。その火消しこそが、教育令だったのかも知   れません。

    モルレーは、日本においては良くマレーやモレーといった風に表記される人物    です。モルレーは来日以前に日本の留学生を世話していたことがあり、日本の教育   事情に深い関心を寄せていました。モルレーは、まず一国の政治家はまず自国の国   民の教育を最優先するべきだとし、教育改革の要点として、第一に自国に適した教   育制度を作ることを述べ、教育制度を改革する際には既存の教育機関をなるべく生   かすべきだと説いています。第二に国民全てに教育を授けること、第三に女子の教   育は男子と同等に重要なことであると述べています。

    モルレーは明治六年六月に日本に到着しましたが、元々三年の任期であったもの   を延長し、最終的に解任されたのは明治十一年の十二月でした。その功績を田中は   たたえ、特に四つをあげている。

    第一は、東京大学の設立により、高等教育の基礎を築いたこと。第二は、女子師   範学校及び幼稚園の設立により、女子教育と幼児教育を発展させたこと。第三は、   教育博物館の創立。第四は文部省所管の学校の規定の制定とその改善に大きな成果   をあげたこと、とされています。

    日本の近代教育草分けの時代にあって、彼の果たした役割は非常に大きな物であ   り、日本がこの人物を招聘できたことは、幸いであったと言うべきだと思います。

 B文明開化

  ア)啓蒙活動と教育

    明治初期はいわゆる「文明開化」の時代でした。欧米の文化は先に述べてきた教   育だけではなく、色々な面において人々の生活に浸透し始めてくる時代でした。

    この文明開化の教育面での最たる物と言えるのが、福沢諭吉を中心とした啓蒙活   動です。福沢諭吉は森有礼の呼びかけに答え、西周や中村正直らと共に明六社を結   成。明治六年に結成されたということから名のついたこの結社は、明六雑誌を発行   して啓蒙活動の中心を成したというのは有名な話です。またそれ以上に福沢諭吉個   人の啓蒙活動は有名であり、慶應義塾の設立、「西洋事情」「学問のススメ」などの   書籍の執筆などの多大な功績をあげることが出来ます。また、これらの所は文部省   が定めた小学教則の中に教科書として採用されるほどの物でした。

    啓蒙活動の一環として、西洋科学を学ぶにあたって西洋数学は基本であり、それ   を教えるために塚本明毅の「筆算訓蒙」や、欧米の地理、風俗学を伝えるために福   沢諭吉の「西洋事情」、西洋の倫理道徳を伝えるために中村正直の「西国立志伝」な   どが書かれ、学校教育が整えられるまでは、それらの一般啓蒙書が、教科書として   使われ、人々に「文明開化」を促したのです。

  イ)当時の教科書

    明治初期の小学校では、往来物や孝経、論語など昔から使われてきた教科書が強   い伝統を維持していました。しかし文明開化の気運が高まると共に、次第に欧米文   明国の書物を翻訳された教科書が用いられるようになりました。この形で用いられ   たのが先に述べた「西国立志伝」のような書物ですが、学制発布後は文部省が出版   する教科書が教科書の中心となっていくのですが、それもまた殆どが翻訳書または   翻訳調の教科書でした。

    この教科書については展示品として大正時代の教科書の実物の複製がありますの   で、それを見ていただければよく分かっていただけると思いますので、ここでは説   明を割愛させていただきます。くれぐれも、教科書を破ったり汚したりしないでく   ださい。質問があればどうぞ係の者に。

  ウ)外国人教師と海外留学生

    明治の教育を語る上で欠かすことが出来ないのが、この外国人教師と海外留学生   です。外人教師は御雇教師とも呼ばれ、政府または民間に招聘され雇用されていた   外国人のことを指す言葉です。ちなみに、個人で来て個人で学校を作ってしまった   場合、私達の身近なものでは洛星のような場合は外国人教師であっても御雇教師で   はありません。

    代表的な外人教師としては、門下生に大隈重信、副島種臣、伊藤博文、大久保利   通らがおり、後に東京開成学校の教頭となったフルベッキというオランダ人宣教師   や、東京開成学校の化学科の基礎を築いたイギリス人のアトキンソン、帝国大学の   工科学教授となったダイバースなどがいます。

    他にも、師範学校の創始期に日本の小学校教育に多大な貢献をしたスコットやか   の有名な札幌農学校のクラークなどがいます。

  (ちなみに、クラークが来たときにはもう札幌学校という名前になっていたらしい?)

    ちなみに、外国人教師の給料はそれこそ破格のもので、少し教師とは言えないか   も知れませんが先に述べたモルレーよりも高い給与をもらっていたのは日本人では   ただ一人、太政大臣の三条実美だけで、左右大臣であった島津久光、岩倉具視と同   額でした。これを見ても、やはりどれだけ外国人教師の招聘に力を入れていたかが   分かります。

    また、日本を急速に近代化させるためには、海外に留学生を派遣することがとて   も重要でした。明治三年に定められた「海外留学生規則」によると、海外留学生は   全て大学の管轄下とされ、大学から留学免状、外務省から渡航免状を渡すこととし   ている。後に管轄は文部省の下に移り、明治六年には海外留学生が三百七十三人に   も及び、そのうち官費生は二百五十人でしたが、その留学生のためにかかる経費が   年間二十五万円に及んでいます。

    また、後に御雇教師は金銭面の問題で次第に減少し、その穴を欧米のことをよく   知っている海外留学生達が埋めていきました。海外留学生と外国人教師をフルに活   用した日本の学制時代の教育は、この面においてはうまく言ったと言えるでしょう。

 C教育令

ア)  教育令発布のいきさつ

明治十二年九月二十九日、学制を廃止して教育令が定められました。これは本来田中不二麻呂の構想では中央集権的な教育を改め、アメリカのように教育の権限を地方に分権すべきという考えのもとに制定されるものでした。この田中不二麻呂が制定しようとした教育令を日本教育令といい、これの原案にはモルレーの日本教育法が強く影響していました。そしてこの日本教育令は明治十一年五月十四日に太政官に提出されたのですが、太政官は当時参議であった伊藤博文に審査させ、伊藤はそれを修正して提出したのですが、原案の七十八章からなっていた日本教育令は伊藤によって四十九章に改められ、またこの修正により文部卿の権限についての条文がすべて削除され、学生の基本であった学区についても削除され、さらには田中が重要性を説いていた「教育議会」の条文も削除されました。

この条文を見た元老院の議員佐野常民は、こんなものが発布されれば教育は崩壊すると危機感を抱き、警告したのですが、それは聞き入れられることはなく、結局佐野が危惧したような教育の混乱衰退を招いてしまうのです。

  イ)教育令の内容

    教育令は、主に小学校について定めています。まず第一条は文部省が全国の教育を統括すると定め、第二条は学校の種類を定め、第三条以下で各学校について規定しています。小学校については学科の名称も上げているのですが、ほかの学校についてはその性質を規定しているに過ぎません。

    小学校について学生と比較すれば、まず最たるものは学区制の廃止があります。これに伴って学区取締の役職がなくなり、代わりに町村民による投票で選ばれる学務委員がこの役目に当たりました。就学義務についてはまず加重六ヶ月を義務としたことは非常に大きな変化です。また、小学校の代用を私立小学校によってできることとしました。

    教育令は教育の権限を大幅に地方に委ね、地方の自由に任せ、学生に対する非難に応えようとしましたが、しかしこれは教育の大幅な衰退をもたらし、わずか一年余りで改正されることとなったのです。

ウ)教育令の改正

明治十三年に文部卿に就任した河野敏鎌は直ちに教育令の改正の準備を進め、その年の十二月九日に教育令改正案を太政官に提出。その後元老院の審議を経て、明治十三年十二月二十八日に交付された。これが「改正教育令」です。

改正教育令はまず、全国に学校を普及させた学制を高く評価するところから始まり、教育令の過失を認めている。そしてイギリスの例を挙げて、普通教育は国家の干渉が重要であると力説しています。

改正教育令は教育令の一部を削除し、新たに三章を追加した五十章となっていて、修正の主要な点は重要な事項について「文部卿の認可」を必要とするとしたところや、府知事、県令の権限を強化したところにあります。このほか内容においては学校の設置、就学の義務についての規定の強化などがもっとも大きな修正です。

小学校の設置については各町村は一箇所または数箇所の小学校を設置すべきものと規定し、私立小学校による代用は府知事もしくは県令の認可を必要とすることにしました。また就学義務を三年とし、またそれと同時に年間の授業を今までの四ヶ月以上から改め、三十二週間以上とし、学校は常時授業をすべきものとしました。このほか学務委員は府知事や県令の任命とされたり、小学校の学科の冒頭に「修身」を置いたことが大きな変更といえます。

改正教育令後は各府県ごとに教育の制度が整備されたが、しかし就学率は停滞または減少の一途をたどった。それは学校に対する交付金の廃止などの経済的理由が原因で、改正教育令が原因とは簡単にいうことはできませんでした。

そして、明治十九年に小学校令、中学校令、帝国大学令、師範学校令が公布されて、改正教育令は短期のうちに廃止されたのです。

   エ)改正教育令後の初等教育

     改正教育令後は、下等小学四年、上等学校四年が改められ、初等科、中等科、高等科のそれぞれ三年、三年、二年に改められました。教育令の次代は先に述べたとおり経済的に苦しい時代で、生徒数は減少の一途をたどっています。しかし、学生の時代とは違い、生徒が下等小学で辞めるということが少なくなり、上級学校への進学は増えています。このような状況を背景に諸学校の学年編成が次第に実質的に成立し、それに応じて教科書も学年段階別に編集されるようになってきました。これは学生時代と比較すると大きな進歩であるといえます。

   オ)教育令期の高等教育の発達

     教育令期には中学校および師範学校が次第に整備されました。文部省は明治十四年に良好の教育対抗を定め、医学校についても整備され、また専門学校はこの時代に源を発し、東京大学もこのころに基礎を固めました。

     師範学校は府県に各一校ずつは最低配置され、二校を抱える府県もありました。また、女子師範学校を別に設置した府県もありました。これは、改正教育令が府県に師範学校の設置を義務付けたことが大きかったといえます。

     師範学校の入学資格は年齢十七歳以上、小学中等科卒業以上とし、就業期限は小学師範学科は一年、中等師範学科は二年半、高等師範学科は四年とされています。これより当時は師範学校の生徒は年齢の上では高くとも、高等師範学科を除けば中学校より程度の低い学校であったことがわかります。

     中学校は明治十二年には七百八十四校、明治十三年には百八十七項に激減しています。中学校は初等中学科四年、高等中学科二年で構成されていて、入学資格は小額中等科卒業以上とされています。

  D国家主義教育体制の確立

ア)  森文相の教育政策

明治十八年十二月、明治維新以来の太政官制を廃して、はじめて内閣制度が設けられた。このとき文部大臣に就任したのが森有礼です。森は明治十九年三月に帝国大学令を制定し、四月には先に述べていた小学校令、中学校令、師範学校令が公布されました。

森有礼は古くから教育に関心を持っていて、森は明治岩塩にアメリカに外交官として滞在していた際に、日本の教育についてアメリカの有識者に意見を求め、これを英文のままアメリカで「日本の教育」として出版しています。

そんなこんなでも文部大臣になった森有礼は、そのとき三十八歳でした。

森文部相の教育政策の基本をなすものは国家富強主義の教育観であった。森は富国強兵政策の柱の一つとして教育をあげ、初代総理の伊藤とともに国家主義的教育政策を実行しました。

   イ)教育勅語の発布

     明治二十年代の初めに整えられた日本の教育体制は、政治の面では大日本帝国憲法によって基礎がおかれ、また国民道徳の面では「教育勅語」がこの体制を支えました。

教育勅語は時の総理大臣山県有朋と芳川文部大臣の責任の下に起草が進められました。起草にあたっては、はじめ中村正直に依頼したようなのですが、その後井上毅の原案を中心として、幾度か修正を重ねて最終案文が成立したものだといわれています。

教育勅語は明治二十三年十月三十日に総理大臣と文部大臣を宮中に召して、下賜された。その後教育勅語は徳育の基本となり、日本の教育の基本方針がこれによって確立されました。

ウ)小学校制度の整備

  教育令を廃止して学校種別に学校令が制定されたことは先に述べたとおりですが、ここで述べる小学校令が制定されたのは明治十九年四月九日のことです。

  小学校令は全文十六条で、これによれば小学校は尋常、高等の二種類と定め、学齢は従来どおり満六歳から十四歳、また尋常小学校を義務教育とし、尋常四年、高等四年と定めました。

  明治二十三年には新しく「小学校令」が公布されました。この新しい小学校令は全文九十六章からなり、その内容は、小学校の編成、設置、授業料、教員などについて八章で定められていて、これはドイツを元に制定されたといわれています。明治前期の教育はモルレーに代表されるように医学以外ではアメリカの影響が大きかったですが、明治後期には憲法制定において参考にしたドイツの影響が大きくなりました。

これ以前は小学校は普通の教育を授ける所としかされていませんでしたが、この際に基礎的な生活に必要な知識を与える所という明確な定義が成されました。この定義は長く五十年間、国民学校令の時代まで続いており、その長い間日本の小学校教育の中核を成すこととなりました。

また、この小学校令に基づいて小学校教則大綱が定められ、各教科の教授内容、方法についてや学級編成に関する規則、小学校の設備についても定められていました。

エ)師範学校令

師範学校令はもちろんのこと、師範学校について定められたものです。これによれば、師範学校は高等、尋常の二種類とされ、高等は官立で東京に一校、尋常は各府県に一校以上と定められました。このうち高等師範学校は尋常師範学校の校長または教員、尋常師範学校は公立小学校の校長と教員を育成する機関とされました。

オ)中学校令

中学校令ももちろんのこと、中学校について定められたものです。まず中学校を尋常と高等に分け、高等中学校と尋常中学校を設けることにしました。これはそれまでのような初等、高等中学とは違って、全く別の学校でした。

尋常中学校は各府県立のものは各一校と定められました。この頃は中学が多すぎたためか少し教育水準が低かったのが、中学校が減ったことにより外国人教師を雇う数が増え、結果的に教育の向上に繋がりました。また、尋常中学校の上部組織にあたったのが高等中学校ですが、これに関しては整備がうまく行かず、円滑にこの二つが接続されるのは明治三十年代以降のこととなりました。

この後、中学校は次第に発展し、その機を見て明治二十四年十二月に府県立は各一校であるという規則を撤廃しました。

高等中学校は名称こそ中学校といっていますが、その中身は全く異なるもので、ここに入ると言うことは帝国大学への進学をほぼ確約されたようなもので、いわゆるエリート階層育成のための学校でした。この高等中学校は全国五カ所に配置され、それぞれ東京、仙台、京都、金沢、熊本に配置されました。また、この高等中学校は今の大学のように専門科を置くことも認められていました。さらに、尋常中学校とは教育内容に大きな隔たりがあったということから、この高等中学校は、今で言う国立大学のことだと言えるでしょう。

カ)帝国大学令

帝国大学令は、帝国大学を国家体制の中に明確に位置づけ、また教育と研究という二つの役割を課しています。

帝国大学においては、法学部が特に優遇されており、総長は必ず法科大学長を兼ねるという仕来りがありました。これは、いかに優秀な官吏の育成に日本が力を入れていたかが分かります。

また、帝国大学においての特徴の一つは、復古的日本主義な面です。帝国大学においては前身である東京大学にあった和漢文学科、日本現行法や日本古代法律などを更に強化しています。

E近代学校制度の整備

ア)義務教育制度

小学校令によって、日本においては初めて、初めて四年制の義務教育が誕生しました。明治三十三年の小学校令では、尋常小学校を四年、高等小学校を二年、または三年、四年と定め直しました。またこれと同時に高等小学校と尋常小学校の併設を奨励し、これは近い将来に現在に近い形である六ヶ年制義務教育を実現することに備えたものであると考えることが出来ます。また、この小学校令では、第五十七条で義務教育については授業料を原則徴収しないこととしました。現場では半ばそれが当たり前になりつつありましたが、この事柄を制度として定めたのは、日本の近代教育の発展の歴史上で大きな意義があるものと考えられます。

この大きな変化に教育制度を導いたのは、明治二十七年頃の日清戦争後の技術の発達に伴う国民生活の向上であったり、この頃から多く必要とされるようになった工場労働者には農業労働者よりも高い水準の教育が必要だと言うことであったりします。

また、明治三十七年頃の日露戦争後にはまた小学校教育は著しい成長を成し遂げ、ついに義務教育が六ヶ年となります。これは尋常小学校を二年延長することによって、尋常小学校を六年とし、それを義務教育としたものです。

これにより、中学校へ直接義務教育を繋げることが出来るようになり、また今の教育制度に一つ近づいたのです。

イ)国定教科書

最初の国定教科書といえるのは、修身の教科書です。修身とは、今で言う道徳のようなもので、国民の思想を統一するためにはこの教科書を民間に任せっきりであるのは好ましくないと言うことで、まずこの教科書が国家で編纂すべきものとされました。これが初めての厳格に審査された教科書で、その意味で、国定教科書と呼んでいます。この修身の教科書の国定とほぼ時を同じくして、国語読本の国定も提案されました。これに関しては実物の複製が展示されていますので、是非そちらをご覧ください。

最終的には、修身の教科書が国定とされて四年後の明治三十四年、全ての教科書が国定されることとなりました。

これ以前に存在した検定制度は、余りにもずさんなもので、教科書の採択において賄賂が横行し、それに対し文部省は法整備で対抗したが、その犯罪行為は更にエスカレートし、明治三十五年十二月、ついに全国一斉検挙が行われます。これが教科書疑獄事件と呼ばれる事件であり、この際に教育関係の上層部の人々が多数検挙されました。

この後、明治三十六年四月、小学校令が改正され、小学校教科書の国定制度が確立され、明治三十七年四月から国定教科書の使用が始まりました。

ウ)中等教育の整備

小学校の義務教育が六年になり、また国民生活の向上により就学率が上がったため、中学校に進学しようとする人数が爆発的に増えました。過去にはエリートの育成機関であった中学校は、二十世紀に入る直前である明治三十二年の中学校令によって男子、女子の高等普通教育、そして実業教育の三つを成す学校という位置づけに改められました。

また、この頃の女子の最高学府は未だにこの中学校にあたる高等女学校であり、最低限の教育は誰にでも施すが、そこから先は儒教tけいなかんが絵が残っていた、という側面も伺うことが出来ます。

エ)学校体系の整備

先に述べたとおり、中学教育は「高等普通教育」を施すものと改められたため、それ以前の中学の役割を果たす学校が必要となりました。それが高校であり、専門学校でした。

高校については、以前の高等中学校と大差はありません。専門学校としては、芸術や音楽、工業や農業、実業などの専門学校があげられます。

そして日本の最高学府であった帝国大学も、関西に設置すべきと言う声が高まり、明治三十年六月、ついに京都に京都帝国大学が設立されます。これに伴い、帝国大学は東京帝国大学と改称しました。

これ以外にも、幼稚園が明治二十年代以降急速に発展しました。設置数は二十年で四倍弱、幼児数は約五倍になっています。

また、明治四十一年に義務教育が六年とされた後、一年後には就学率が九十八パーセントに達しました。これにより、日本の基礎的な教育は完成されたと言えるでしょう。

しかし、今のように易々と大学に行かせられるわけでもなく、結局は高等教育を受けるには親のそれなりの社会的地位が必要となってしまっていました。

しかし、本来教育という言葉の外にいた一般の国民に、高水準な教育を受けさせるに至った明治の教育制度は、結果的にこの先の日本の発展を支えていくことになっていきました。