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京都にできた日本初の小学校

 

T.はじめに

 京都は、明治初め、日本初の小学校が市内各地に設立されたことで有名である。これらの小学校は、市民の意思によって設立された。小学校設立の過程とその後を見ていきたい。

U.近代以前

@町組(ちょうぐみ)について

町組は、江戸時代に京都につくられた住民自治のための組織で、道路をはさんで形成された町が集まって連合したものです。原型は16世紀初めごろに形成されました。京都府は、明治2(1896)年町組を、27程度の町を1番組とし、三条通を境に上京と下京に分けて上京に33、下京に32の番組に再編しました。

A教育の伝統

ア)江戸時代 

庶民教育の場として、寺子屋が多く存在しました(幕末〜明治初めには上京に58、下京に20)。

 石田梅岩・手島堵庵らの石門心学の私塾もありました。

  武士のための教育機関としては、淀藩の藩校「明親館」がありました。

a)京都にできた私塾

  安永2(1773)年 手島堵庵「修正舎」開設    

  天明2(1782)年    〃   「明倫舎」開設    

  天保4(1833)年 北大路大学助「宣教館」開設…庶民のための教育施設で、高名な儒者などが朱子学や石門心学の講釈を行いました。

V.小学校の誕生  

B小学校建設の動き 

小学校建設の動きは町衆からおこりました。下京の画家 森寛斎を中心に、寺子屋経営者 西谷良圃(りょうほ)、画家 幸野楳嶺、書家 遠藤茂平(もへい)、鳩居堂主人 熊谷直行(ちょっこう)らが集まり、寺子屋の近代化について話し合いました。森たちは、混迷の中にある日本の近代化のためには教育が大事だと考えていました。

ア)小学校建設を考えた人々

   森寛斎…元長州藩士 槇村正直や廣澤真臣(後述)と志をともにしていました。

  西谷良圃…高倉通錦小路で「菁々塾」を開き、子供に手習いを教えていました。

  幸野楳嶺…明治初年に絵の私塾を開き、明治11(1878)年には画学校をつくるよう意見を出しました。

  遠藤茂平…書籍を扱う家業を通じて教育の普及に熱意を持っていました。

  熊谷直行…先代の直孝は私財を投じて上京第27番組小学校(柳池校)を設立した功労者です。直行も先代の教育に対する熱意を見て、この会合に加わりました。

    廣澤真臣…長州藩士。リーダーの森が長州藩出身であったため、長州藩士の廣澤が寄合の助言者として迎えられたといわれています。

 イ)建設の働きかけ           

西谷良圃は慶応3(1867)年、町奉行所へ「幼童教導之辨(ようどうきょうどうのべん)」(官立の教学所設立の建白)を提出しました(遠藤も小学校設立に関する建白書を府に提出しています)。また、慶応4(1868)年には「小学校建設の急務」を述べた口上書を3度提出し、府は9月に小学校建設を勧める通達を出しました。

のちに2代目府知事となった槇村正直が読書・習字・算術の稽古場として、1組に1箇所の小学校建設を計画しました。

C小学校建設にあたって

 明治元(1868)年、「小学校建営の布達」が出され、番組ごとに学校をつくる際の基本図面が示されました。

 府は学校建設費を各番組に貸し付ける制度を設けました。1番組に800両を貸し付け、半額を小学校建設に使い、10年で返済、あとの400両は町会所建設 (後述)に使い、返済不要としました。しかし、実際には府からの貸与金では足りず、寄付を募ったところもありました。「かまど銭」と称して町組の一家を構える家々から児童の有無に関わらず出金させ、学校の経営に充てました。

 

W.小学校の開校とその様子

 明治2(1869)年5月21日、上京第27番組小学校(柳池校)と下京第14番組小学校(修徳校)で開校式が行われた後、次々と開校し、年内には64の小学校が設立されました。多くの小学校は地元の寄付や神社の敷地の一部で賄われましたが、中には空き家になった貴族の屋敷を使用したものもありました。

府独自の規則により、筆道・算術・読書の3教科を中心に教育が行われたほか、日本画の教育に力を入れました。これは。京都の伝統工芸である染め物、織物、焼き物の基本技能になるからであり、北大路魯山人など多くのすぐれた芸術家が番組小学校から生まれました。また、当初は教科書がなく、教材として太政官高札まで使用されました。

 小学校は単なる教育機関ではなく、町会所であり、府の出先機関として区役所・保健所・警察・消防・福祉事務所・気象台などとしての役割も担っており、火の見やぐらや太鼓場を設置していました。

 

X.小学校建設の意義

 小学校を建設する際には、町会所などの役割が併設されました。これは、幕末・維新期の混乱によって京都町奉行の組織が崩壊したため、それに代わって治安維持、行政を行うためであり、小学校は府の教育を進めるという政策に基づいて建設されました。

小学校建設は事実上の東京遷都によって京都の町が荒廃するのを恐れたためだという記述をよく見かけますが、東京遷都は明治2(1869)年5月であり、これを受けて小学校が建設されたわけではありません。しかし、京都の町衆が江戸時代から教育の伝統を受け継いできたおかげで、琵琶湖疎水、市電など、日本初の施設を建設でき、工業の発展にもつながりました。

 

Y.その後の小学校

 番組は、明治5(1872)年には「区」と再編され、さらに明治12(1879)年上京区下京区がおかれると「組」と改め、明治25(1892)年には「学区」と改称されました。昭和16(1941)年に国民学校令により廃止されるまでは、学区は単なる通学区域ではなく、独自の財源を持ち、教育経費を負担する自治団体でした。

近年、少子化やドーナツ化現象の進行により、小学校の統廃合が進んでいます。しかし、この学区は現在でも「元学区」として、京都の地域住民の自治単位として機能しており、現在でも区民運動会などの催しが市内各地で行われています。

 

Z.参考文献

 沖田行司『日本人をつくった教育』2000年 大巧社

 奈良本辰也『日本の歴史17 町人の実力』1966年 中央公論社

 青木美智男『大系日本の歴史11 近代の予兆』1989年 小学館

 京都市教育委員会・京都市学校歴史博物館編『京都学校物語』 京都通信社