科挙

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科挙とは?

 

 科挙とは6世紀後半の隋から導入された(高級)官僚候補者の選抜試験の事をいいます。科挙とは「科目別選挙」という意味です。

  漢代から、官吏選抜には地方官の推薦(これ「選挙」という)が主要なものの一つとして行われていました。しかし三国の魏の時代に改革が試みられたものの、地方官と地方豪族との癒着から人物・学力などを考慮せずに推薦することの頻発が止まなかったために、6世紀後半に隋の文帝により、科挙が導入されました。制度としては唐代に確立しましたが、当初は父祖の官位に応じてその子弟に無条件に叙位するといった蔭位の制により、なかなか科挙出身の官僚が出世するケースはなく、そのような門閥貴族中心の政治を打破しようとした宋代に至り、ようやく興隆を迎えました。そして、13・14世紀の元の時代の一時期に停止されたことを除けば、科挙は様々な変遷を経ながらも続き、清朝末期の1905年まで存続しました。しかし、科挙の興隆は、学問の性格を「科挙のための学問」というものに変質させてしまいました。

 ここでは科挙は、数段階ある官吏選抜試験を包括的に捉えたものを指すとします。


科挙の試験内容・試験制度

 

T.隋唐代

 

隋唐代の科挙の流れとしては、

<第1段階>case1:(地方の行政単位である)府もしくは州から自分の希望する科を受                 

                                       験

      case2:国立学校在籍者は国立学校で選抜を受ける

<第2段階>勿論、第1段階合格者のみが受験可能で、尚書省礼部(8世紀の玄宗の時代からは尚書省吏部)が行う礼部試の自分の希望する科を受験             

                                といったものです。

 ここで注意しておきたいことは、国立学校の選抜というのは、学力が優秀であるか確かめるものでしたが、ほぼ選抜に合格することが出来たため、実質的には国立学校在籍者は第2段階からの受験となりました。

 

 もう一つ注意すべきこととしては、任官するには吏部の実施する任用試験に合格しなければなりませんでした。

 

 実態としては、国立学校に入ることができたのは貴族の子弟のみだったので、受験者の大部分は府・州での試験を受験していました。

 ただ、国立学校も唐の時代を下るにつれ、教育的な実態をあまり見ることができず、専ら必要なときに試験を実施して資格を与えるだけのようなものでした。

 

 

@昔からあったカンニング

 問題に行き詰まったとき最終兵器として誰の手にもあるのは、そう、カンニングです。無論許される行為ではありません。が、カンニングは昔からあったものです。中国の記録に残る最古のカンニングは751年のものです。

 カンニングの容易な教科としては、明経科です。この教科は暗記がほとんどだったため、経書に書かれていることを何かに写して持ちこめば良いわけです。そこで、有名なものはカンニング用の下着です。これには文字がびっしりと書かれていて、おそらくこれがあれば、試験は怖いものなしだったでしょう。

他にもカンニングは多岐に渡るものだったので以下に列挙してみます。

ア)カンニング用下着着用

イ)経書の内容を工夫して覚えやすいように編集してそれを(上手に)製本したカンニングブックを持ちこむ

ウ)試験用紙とそれに押される検印を偽造し、2人が貢院に入り、もう1人が官服を着用して偽造 した答案を持ちこみ摩り替える。(これは明経科目で行われ、見つかってしまい、3人とも公 印公文書の偽造などで死刑となりました。)

エ)10数人で10万20万銭という多額のお金を出してカンニングブックの持ちこみ屋を雇う。持ちこみ屋が紛れ込めると皆でそれを回して使う。紛れ込めなくても持ちこみ屋が追い出されるだけで済む。

オ)替え玉受験

 

 これらのカンニングが横行する中ただ官の側も手をこまねいている訳にもいきません。受験会場を貢院といいますが、貢院には番兵がおり、人の出入りをチェックしていた上に貢院は茨を編んだ垣根、有刺鉄線みたいなもので囲まれていました。

 

 

U.王安石の改革までの北宋

 

宋代の科挙の流れとしては

<第1段階>解試(府・州での試験と国立学校での試験の総称)※1

<第2段階>省試(唐代の礼部試と同じもの)

<第3段階>殿試(天子自らが受験者を試験するもの)

 

この殿試というものは、天子自らが受験者を試験するもので、時務策が出題されました。つまり時事を問う論述問題のことです。当初殿試では、落第者を出していましたが落第の怨恨が天子に向けられるのを防ぐために北宋の半ばから落第者を出すのは廃止され、専ら省試の順位をつけるものとなりました。

 殿試に関しては唐代から時折、覆試といわれる、省試合格者に対する再試験が行われており、それは省試の不正が問題になることがあったためでした。

 

1:解試を通ると、相互に身分などを保証し合います。勿論組の中の1人が不正を働いたりした場合連帯責任となります。これは不正防止のためでした。尚、南宋時代には3人1組となります。

 

@選択コース

ア)進士科

 広く物事に通じた士君子(儒教的な徳を備えた人)の教養と文才を試みるものでした。唐代初期から最も重んじられた科でした。

イ)明経科

 主に経書についての知識を試すもので、進士科の次に重んじられました。

ウ)他には?

 他にも、法律についての知識を試す明法科、算術についての明算科、書についての明書科目、などがありました。

 

士君子としての教養が重んじられた世の中では、進士科・その次に明経科が重視されるのは当然であり、実務的な算・書・法については軽視されていました。

 

A試験時の貢院のすさまじい賑わい

 豊かな地方では毎回の受験者は大体2000人おりました。しかもそれに加えて、父兄や良家だとお供などの付き添いなどで万を越す人々が貢院に集まることになりました。今日の中学入試当日の風景を考えてみればわかりやすいと思います。

 

B試験頻度

 唐代は毎年科挙が実施されていましたが、宋代に入り遠隔の地からくる人間も多くなってきたということで、2年に1回や3年ごと4年ごとなどと科挙実施は不定期になっていました。そして、2年に1度の科挙では遠隔州からやって来る人間は往復が大変、4年に1度だと、落第してしまったとき次の科挙までの期間が長く、その間に困窮してしまう者が多く出てしまう、このために1067年以後3年ごとに実施することになりました。つまり子の年に解試、丑年に省試、寅年は試験なし、卯年解試、辰年省試、巳年試験なしというような形式になりました。これは明清を通じて守られていました。 

 

V.王安石の改革

 宋代に入り100年程度を経た11世紀半ばから後半の時代、王安石が宰相として国務を総理する地位につき、数々の改革を行いました。その改革の中に科挙制度の改革というものもありました。

 彼の科挙制度改革とは以下のようなものでした。

・試験制度の抜本的改革を行い、諸科を廃止し、進士科・新科明法科に統一し、経書の試験では、暗記を主としていたのを大義中心としました。

・進士含め、官位未叙位の者が叙位されるときは、「銓試」という試験を課しました。

 

@進士科

A新科明法科

ア)律義

 律の解釈を問うものでした。

イ)断案

 実際の事件について律の解釈に基づき判決を問うものでした。    

B銓試

 この試験では、「断案」もしくは「律義」を課していました。

 

 因みに王安石は進士科に839人中4位で及第しました。我々には想像もつかないくらい勉強ができたのでしょう。

 

 

W.旧法党政権の元

 王安石の改革後、王安石の新法党と司馬光率いる旧法党の争いが激化し、新法党に変わり、旧法党が政治の実権を握ることになりました。そこで、司馬光は王安石の改変した科挙制度の改革を行いました。

 

@詩賦をとる方(詩賦進士)の試験内容

ア)本経義二道・論語義一道・試賦各一種・論一道・策二道  

 

 「本経義二道」とは定められた経書の中から、1つ選択した本経の経義について2題出題され、「論語義一道」とは、論語の経義が一つ出題されるといったものでした。

 詩賦進士は、下の経義進士と比べて、経義を軽くして試賦を加えるスタイルでした。

 

A詩賦をとらない方(経義進士)の試験内容

ア)本経義三道・兼経義三道・孟子義各一道・論一道・策二道

 

B試験内容説明

ア)策

 散文のことで、課された篇数で「〜道」という風に数えます。つまり、策二道とは、散文2篇のことを言いました。

策では、主に時事問題について意見を求めましたが唐・宋では古典や歴史的な事象についての問題が多くありました。

 ただ時事問題が課されたこともあったようで「官吏や兵士がむやみに増えて国家財政が危うくなっているのをどうすればよいか?」といったような問題も出題されています。

 問題文も散文の一つのスタイルとみなされるくらい長文のものでした。

 

 

イ)詩賦

 唐代の最重要科目で詩と賦各一種の韻文を作るといったものでした。この採点は試験官の好みによるところが大きく単純に実力だけでは好成績を収めることはできませんでした。

 

a)詩

 律詩という最も精密な定型の韻文形式が用いなければなりませんでした。唐の末では五言六韻十二句、つまり五音節で一区切り、一言 二句ごとに1組(二句一聯)となり偶数句の末字で韻を踏む。最後と最初の二聯以外は各聯で対句を作る必要がありました。この決まりは清まで続くことになります。

 

b)賦 

 律詩の形式よりかは厳しくはないですが、それでも韻を踏まなければならないので散文ではありません。試験の場合はそのテーマに因む5字から8字くらいの一句を与えられ、その句の文字一つ一つにあわせて順に韻を踏むそうですので、与えられた句の字数によって文章の段落を考えねばなりません。

 

 唐宋では詩と賦は必ずセットで、宋代では360文字以上の賦と五言六韻の詩を一日で作ることになっていました。

 

ウ)論  

 短い題目・抽象的な題目を与えられ、それぞれについて自由に議論を展開するといったものでした。これは策とは違って1篇のみだったそうです。

 

 韻を踏んだり、論文たくさん書いたりと、今日の京大・東大の入試と比較しても、それ以上に面倒臭く、困難な試験だったと思われます。例えば、答案用紙が原稿用紙だった時のことを想像してみてください。

 

W.南宋時代

 やがて異民族の侵入により宋は華北を奪われ、南下せざるを得なくなりました、そこで生まれたのは杭州を都とした南宋です。

 試験科目については、新法党方式に戻る時期もありましたが、南宋時代は上記の旧法党方式で落ち着きました。

以後、明・清の時代まで、進士科だけの科挙である点と経義・韻文・散文で試験するというところは永く一貫することとなります。

 

X.明清時代

 明清代になると科挙を目指す受験生はその受験資格を得るため地方に設けられた府州県学に籍を置く必要があり、3段階の学校試(県試→府試→院試)を通過して初めて生員(学校の生徒)の肩書きを獲得、科挙省試を受けることが出来ました。

 また、明清代では受験者は1人1人小部屋に押し込められて受験するようになりました。

 

つまり明清の科挙は以下の通りです。

<第1段階>県試

<第2段階>府試

<第3段階>院試:この段階までを学校試といいます

<第4段階>郷試

<第5段階>会試

<第6段階>殿試

                    これでようやく官僚となることが出来ました。

 

 

Y.科挙受験資格

 唐宋代の科挙の受験資格を以下に挙げてみます。

・商工業者・俳優などの子弟

・刑罰の前科者

・近親に犯罪人がいる者

・父母などが亡くなって喪に服している者:3年間受験不可

 

 農民の子弟ではなく商工業者や俳優の子弟が受験不可であることは一見おかしいと感じるかもしれませんが、当時は儒教の影響で商工業者は重んじられておらず、むしろ蔑まれていたため、商工業者などの子弟は受験禁止とされていたのです。

 

 また、驚くべきことに外国人の科挙受験も許可しており、高麗人や、なんとイスラム教徒が科挙に及第した例もあります。

 

Z.試験日程

 ここでは宋代の試験日程について書いてみたいと思います。以下の月日はすべて太陰暦です。

解試での地方の貢院の鎖院※1

8月5日

遠隔州は若干異なる

解試開始

8月中旬

州によって異なる

〜解試は3日間〜

解試合格発表

9月中旬

 

〜合格者達を地方長官が招いて、壮行会を兼ねた祝宴が催される〜※2

〜合格者は各自、省試のある都へ上る〜

知貢挙、つまり試験長官の任命

12月 ※3

 

省試開始

翌年の正月中

南宋半ば頃から2月、それに伴い知貢挙任命は1月に

〜経義進士・詩賦進士科それぞれ3日間の試験〜

〜合格発表〜

殿試

4月

 

〜殿試は1日で終了〜

10日少し後の合格発表を経て、5月上旬までの15日程度、祝宴や知貢挙・年長者・皇帝・周公旦・孔子・孟子などへのお礼参りといった事柄をして過ごす。〜

 

 尚、合格後の祝宴は盛大なものであり、唐代では長安城東南隅の曲江池に船を浮かべたりしており、(はしゃぎすぎで?)船が転覆し新進士が溺死したという記録もあります。 しかも、祝宴は公費の援助があったそうです。

1:鎖院というのは、受験生が試験場である貢院に入ると、貢院を封鎖するというものでした。

2:地方長官が催す祝宴兼壮行会は、省試に赴く者に、「合格して地方の名前を上げて来い!」「合格して官僚になって地方に有利な政策を行ってくれ!」といった願いを込めて、省試受験者を励ますものでした。これは科挙が個人間だけでなく地方間での争いでもあったことを表しています。

3:宋代から知貢挙は任命されると家に帰ることも許されずそのまま貢院へ直行させられ外部との接触を絶たれ、貢院に缶詰状態にされました。これは知貢挙と受験生の接触を防ぐためで、不正防止の目的がありました。

 

[.採点方法

 科挙の省試などといった第2段階の試験答案用紙の採点方法は宋代に入り不正を防ぐために進化を遂げました。ここでは宋代の採点方法について述べてみます。

 

@封彌(ほうび)

 試巻(答案用紙のこと)のはじめに姓名・本籍・父祖の名前・応挙の回数(つまり省試を受験した回数)など一身上のことを記してある部分があります。そこを掩って糊付けし、記号を打って切り取ってしまうことをいいます。

どうしてか?:採点者が自分の採点している答案の作成者の名前が分からないようにして、採点で特定の生徒に有利な採点をするのを防ぐためにありました。

 

 記号と答案作成者の氏名の照合は審査終了後に行われました。 

 

 ここで封彌に関する面白いエピソードがあります。

 欧陽脩は採点中「これは出来る!」と思った答案があり、その作成者を首席及第させようと思いました。しかし、この試験は欧陽脩の優秀な門人の1人が受験しており、もし首席及第させようと思う人間がその門人ならばえこひいきの疑いがかけられると思い、その人間を次席にしました。果たしてその人間は欧陽脩の門人ではなく、蘇軾でした。彼は封彌のせいで首席を逃したということです。

人間、優秀過ぎてもいけないという教訓を示していますね。(?)

 

A謄録

 封彌の終わった試巻は別の場所に運ばれ、謄録が行われました。というのは、答案の内容の全部を写し取ることです。

どうしてか?:筆跡で個人を特定するのを防ぐため。

 

 省試では1、2万人もの受験生がおり、彼らの詩や賦・散文・論などの全ての答案を写し取ることは、かなり相当死ぬほど大変であったことが容易に想像されます。

 

B対読

 写し終わると、読み合わせをして写し間違いをチェックします。これを対読といいます。

 この@〜Bのそれぞれの段階にそれぞれを担当した人間がいました。

C初考

 初考では、答案が定められた形式に外れていないかチェックします。 

D覆考  

 ここでは、主に答案の内容について審査します。

 Eの判定は試験長官である知貢挙が管轄し、知貢挙の人数は唐代は一人のみで、宋代になっても3〜5人という程度であり、知貢挙のみでは膨大な量の答案を採点できなかったため、この覆考の段階で、ほぼ合否が決まりました。

E判定・奏名・放榜

 判定で、知貢挙が最終的な合否を決定します。

 奏名では、合格者の氏名を天子に奏上しました。

 そして、放榜とは、つまり合格発表のことです。

 


時代別合格率一覧

時代

第一段階試験受験者 

 

第一段階試験倍率

第二段階試験受験者

第二段階試験倍率

備考

唐初期

 

 

(進士)

200400 

       

(進士)

7〜13倍程度

1

唐中晩期

 

(明経)

1000〜2000人

(進士)

1000人程度

(明経)

510

(進士)

50100

 

 

北宋当初

2.5万〜5万?  

5〜10倍 

5000程度  

100倍前後?

 

北宋初期

7、8万?

5倍程度

1〜2万

10〜40倍程度?

2

北宋

仁宗時代

1022〜1063年)

数十万?

3〜5倍

1〜3万程度?

20〜30倍程度?

 

北宋

神宗時代

1048〜1085年)

5000強

10倍程度?

3

北宋その後

数十万

5〜10倍?

 

1〜2万

10〜30倍程度?

 

南宋一般

数十万

10〜50倍?

北宋よりも厳しくなった

5

 

4

 

 

第三段階の殿試で落第があったときは殿試の倍率と総合して出しています。

因みに殿試の倍率は詳しくは分かっていませんが厳しいときは50数倍にも上りました。

 

1:受験者が少なく落第者にも帰りの旅費として絹5疋を与えていた

2:二次試験に、時折100倍程度というものすごく厳しいときもあり

3:進士科に一本化されその他の科目の受験者が減ったため

 ※4:西北部より東南部の方が倍率が10倍くらい厳しかった

 ※5:南宋の第一段階試験は倍率が厳しいときは100倍200倍にも上りました