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足利学校

 

T.中世の日本

日本中世には基本的に軍師養成の学校として名をはせた足利学校や聖職者養成の宗教教育施設以外、基本的に学校教育制度発達しませんでした。また、被教育者も大名などの上級武士、一部の豪商、有力者の子弟に限られていました。

 

U.歴史

創立者は小野篁(たかむら・平安初期の学者)が839年(842年とも)設立、

または足利義兼(12世紀末)とも言われています。現在も論争は続いていますが、近年は後者が有力なようです。

その後、1432年、足利領主・上杉憲実によって再興されました。鎌倉円覚寺の僧・快元を庠主(しょうしゅ=校長)に招き、蔵書を寄贈して盛り上げました。北は奥羽、南は琉球にいたる全国から学生が来たそうです。

1530年頃(享禄年間)に火災で一時衰微しますが、7代目庠主・九華が後北条氏の保護を受け、再興します。『学徒三千』とよばれるほどの盛況ぶりでした。(下記W.戦国期 参照)

1590年の豊臣秀吉の小田原征伐により、北条氏

滅亡で庇護者を失い、所領と蔵書の一部を失いますが9代目庠主・三要が新しい関東の領主・徳川家康の保護により再興します。

江戸期前期〜中期には100石の所領が寄進され、毎年初めにその年の吉凶を占ったものを幕府に提出することになり、また度々異動する足利の領主の保護をその都度受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として二度目の繁栄を迎えました。

しかし、朱子学の官学化及び泰平の世になったことで、易学、兵学中心の足利学校は衰退し、

江戸時代の学者たちは足利学校の所持する蔵書にしか注目しなくなっていきました。

そして明治になると廃藩置県により管理は足利県(後に栃木県として統合)に移り廃校となりました。

その後、史跡保存活動によって、繁栄期の姿を現代に取り戻しました。

V.概要

生徒は僧侶でなければならず、入学後もそのままでした。例外として武士の子弟が短期間入学することもありました。 

カリキュラムは漢文や易学が中心で他に儒学、

天文学(月や星、雲・風の流れを察知する。戦国期には特に重宝されたジャンル。)、医学がありました。

軍師育成の学校と呼ばれていますが、創立当初はそうでもなく、兵学というカリキュラムは元々なかったらしく、後々乱世となり、追加されました。

学費は無料で寮などはなく、生徒は近くの民家に寄宿していました。食料は学校の敷地内の菜園で作ったもので調達していました。また敷地内には薬草園もあったそうです。

 

W.戦国期

軍師育成の学校として名をはせ、卒業者のスカウト合戦が繰り広げられました。

その卒業者で最も有名なのは徳川家康に仕えた天海でしょう。彼は世間に出る前の四年間在籍していたそうです。

 

また、医学校としても有名です。

理由としては難しい漢文で書かれている医学書を解読できるほどの漢文の授業を受けられたので医学の道にすすむ人も多かったからです。

代表的な人物としては曲直瀬道三(1507〜1595)という人物で、室町幕府第13代将軍・足利義輝の病を治したり、中国地方の雄・毛利元就の寿命言い当てたという話も残っています。その名医ぶりから

天皇家や毛利家など多くの大名家に重用されました。毛利家では政治に意見することもできたほどでした。

      

 そして、この時期には在学生が3000人を越え、

フランシスコ=ザビエルはこの様子を『日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(大学)』と記し、足利学校の名は世界に伝えられました。

この時が最盛期でした。