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中世ヨーロッパの教育


ビザンツ帝国

ビザンツ帝国はキリスト教を国教としていたのにも係わらず、教育や学術などの面においては基本的に、古代ギリシャ・ローマの方針を継承した。

その背景には貴族階級の学問に対する情熱とさえいえる態度があったことが大きく関与していたことが知られている。ビザンツ帝国においては優れた教育を受けることは大きな美徳の一つとさえ考えられていたため、ヘレニズム世界の学問を忠実に継承し、そこにはキリスト教による断絶感は見られなかった。『イリアス』『オデュッセイア』に至っては聖書を別とすれば、万人愛読の書となっていたほどである。

初期のビザンツ帝国では学問の中心地はアレクサンドリア、アンティオキア、ベイルート、アテナイなどいくつかに分かれていた。それらの都市の学校はキリスト教時代になってからも活動を続けていた。首都コンスタンティノープルにはコンスタンティヌス大帝が学校を設立し、テオドシウス二世の御代にはコンスタンティノープル王立大学が創立された。そこでは、当時の派手な風潮に従って校長は学術の太陽と呼ばれ、他の都市の学校がキリスト教によって閉鎖されたり、回教徒の手に落ちたりしたのちにギリシャ人の学問研究の最後の砦となった。

学科は修辞学、古代ギリシャ語文法、古典文学の研究などに分かれ、ギボンの叙述によると全部で12の学科があったらしい。彼らもやはり当時の派手な風習に従ってその12人の協力者、すなわち各学科の教授は黄道帯の12宮に例えられた。

教師の数については、ギボンの記述の他に、修辞学教師がギリシャ語5人、ラテン語3人、文法教師がギリシャ語、ラテン語それぞれ10人、法律学者が2人、哲学者が1人と伝える資料もある。時代が違うのかも知れない。

その上、3万5500巻もの蔵書を備えた図書館も彼らの研究のために開放され、隆盛を極めたコンスタンティノープル大学であったが、7〜9世紀にはキリスト教の魔手がそこにも伸び、ユスティニアヌス帝がアテネの大学を閉鎖(529)したり、アレクサンドリア、アンティオキア、ベイルートなどが回教徒の手に落ちたりと、ビザンツの学術は暗黒期を迎えた。そのため学生達はそれぞれ個人教師に師事したが、それでも捜せばいくらでも立派な教師に師事することができたらしい。

11世紀になるとギボンによると

アラビア人らの宗教的狂熱が鎮まってから、
回教王らはローマの領地よりもむしろ学術を征服しようと熱望した。
こうした彼らの高大な好奇心はギリシア人らの競争心を刺激し、
彼らを奮い文庫の塵を払わしめ、
従来研究の喜びと真理の追究欲を以て唯一の報酬としていた哲学者らに、
現実的地位と褒賞を与えることを教えた。

という過程を経て、コンスタンティノープル大学が再編され、マグナウラ宮殿等に新しい学校が幾つか創建された。
しかし、それらのことはコンスタンティノープルの死の前の最後の絶頂期に学問の花が咲き乱れたようでもあったように私には思える。
 


西ヨーロッパ

ケルト人

工事中


フランク王国

ゲルマン人の侵入でローマ文化は危機に瀕したが、ガリア北部ではカール大帝が勢力を伸ばし、教皇に接近するにつれ、アイルランドやブリタニアなどゲルマン人侵攻の被害が比較的小さいところからアルクインを始めとした学識ある聖職者がブレーンとして招聘された。

彼らはカール大帝の側近顧問として働くと共に、当時の資料で言うところの宮廷学校も運営した。生徒は子供(プエル)と呼ばれ、ノートケル(9c)によると詩文を教わったようである。生徒はカールの命により貴族の子弟だけでなく中流・下流階級からも集められ、養育され、勉学を教わったとされている。カールの3人の王女も熱心な生徒であったようである。
ノートケルはカールが生徒をその貴賤にかかわらず自ら教育しようとしたことを表す恰好のエピソードを伝えている。

ある時、王は少年達を自分の許に呼び寄せ、詩文を提出させた。
すると中下層出身のものは良い詩文を書いたのに、貴族の子弟はつまらない詩文しか書けなかった。
カールは優れた詩文を書いた少年達を自分の右手の方に呼び集めて言った。
「我が息子達よ、心からお礼を申す。汝等は予の命に従い、力の及ぶ限り有益な知識を得ようとつとめてくれた。
更に精進し、一人前になれるよう努めよ。その暁には汝等に見事な司教区や修道院を与えるであろう。
汝等は予の面前で常に晴れがましい待遇を受けるであろう。」
それから今度は左側に集められた貴族の子弟に向かって厳しい口調で言い放った。
「天井の王に誓って言う。汝等の高貴な出自や優美な身なりを例え他の誰が褒めそやそうと、予は高く評価しない。
はっきり肝に銘じておけ。これまでの怠慢を償わないかぎり、
カールの許では何一つ徒のあるものを手に入れることは出来ないだろう。」

学校といっても特定の建物があったわけではなく、当初は王の移動に従って宮廷と共に各地を転々としていたようである。アーヘンに定着したのはカールの晩年頃に過ぎない。

教えられた教科はつあるが、その中でも最重要視されていたのはラテン語の文法学である。この時代ほとんど死語になっていたこの教会の公用語はイタリア人の教師によって教授されていた。他に天文学を中心とした自由学芸も教えられていたが、こちらは将来の立身出世には繋がらなかったためか現在の日本の情報の授業と同じくあまり熱心な生徒はいなかったようだ。

この学校は創設者アルクインの言葉を借りると聖なる教会に役立つ人材の育成を目的としていた。そのため、彼らは卒業後宮廷礼拝堂入りし、更にその後司祭や修道院院長になったようである。


中世の大学

11世紀以降、西ヨーロッパの政治機構は複雑化し、専門分化した文化人のニーズが急増し、これまでの聖職者だけでは追いつかなくなり、文化人を組織的に養成する専門機関の設立の必要性がいや増した。
同じ頃、この地では都市の発展が始まっていた。都市とはすなわち非農業人口の定住地である。そのため文化人を一ヶ所に集め、組織的な教育を行うことや専門分化別の教育もやりやすくなっていた。
そして、ちょうどこの頃、ビザンツやイスラムの文化圏から書物が流入し、知識人の好奇心を大いに刺激し、ゲルマン民族の破壊と忘却の手にゆだねられていた古代ヘレニズムの文化を再発見させるに至ったのである。

このような時代背景の下、西ヨーロッパの大学は建設された。こうして、教育の中心は修道院から法学校などの学校へと移り、ボローニャ、パヴィア、ラヴェンナ、ローマ等に法学校が建てられた。また、中世ヨーロッパで最古の専門知識を授けた学校はサルレノ(ナポリ近郊)の医学学校である。ここではギリシャのヒポクラテスの医学を教えていたとされている。しかし、この学校には後の大学に見られるような専門性はなかった。

当然こうして書物の需要は高まり始めたのだが、当時ヨーロッパでは本が高価だった。イスラムとの抗争のために7〜8世紀頃からパピルスの輸入が止まり、かつて同様の状況に置かれたペルガモン人の発明した羊皮紙を使っていたからである。羊皮紙は一般的に印刷が難しいので、本の複製は手写しに依存することとなった。結果当時の一般人の1年あたりの生活費20フロリンに対し、本1冊あたりの値段は25フロリンにもなった。当時の大学教授の最高俸給すら50フロリン程度なので、一般人はおろか大学教授でさえ本は1年に1冊買えるかどうかと言う線に立っていたのである。(因みにこの状況は14世紀末まで続いている。)

そのため、当時の西ヨーロッパの教育が書物に依存する学問ではなく耳学問になるのは当然の成り行きであった。そのため、更なる知識を欲する知識人達にとっては司教座教会付属学校か法学校で講義を聴くのが一番手軽で賢いやり方であった。初期の内には講義はそのための一定の場所ではなく、その都度教会などから場所をかりるか、青空教室を実施するかして行われた。

では国境や言語は障害にはならなかったのかと読者諸君は考えられるかも知れないが、ゲルマン民族の劫略の後、大衆を学問から遠ざけていたラテン語という表記媒体が皮肉な具合に幸いした。すなわち講義は全て西ヨーロッパ共通の書き言葉ラテン語で行われていたのである。知識人たるもの当時の西ヨーロッパではラテン語が必須であったから現在の同時通訳のような者など端から必要なかった。

このため、学生達は優れた教師の下に集まった。特に初期の内は学生のほとんどが一定の社会的地位を持った人々なので、出身地も民族も関係なかった。このような情勢下で発展していった大学が、
 ・アベラールを擁するパリ司教座教会(ノートル・ダム)付属学校
 ・イルネリウスを擁するボローニャ法学校
の2校である。後に前者はパリ大学に、後者はボローニャ大学に発展するが、それは後述する。
これらの学校では『アベラールとエロイーズ』という師弟の許されざる愛を描いた物語が書かれることからも判るとおり、女性の教育も認められていたものと考えられる。

しかし、ボローニャとパリの大学はその成り立ち故にかなり異なった発達を遂げた。

ボローニャ大学はローマ法を中心に一般教養(7自由科)の中から医学や神学を教えた学校であったが、その運営は少なくとも初期の内は生徒中心であった。それを説明するにはまず university という語の成り立ちから説明しよう。
universityの語源はラテン語の universitas に求められる。これは本来"教師や学生の組織体(ギルド)"という意味であった。それはほとんどが市民でない学生達が市民権なしの無権利状態から脱するために自衛・相互援助を目的に結成したものであったが、ボローニャ大学の場合はボローニャ市民であった教師達はこれに加わらなかったために、大学の運営権は学生達の手に握られ、教師を監督するために学生の中から学長が選出された。
それでも教師と学生の折り合いが付かないときは学生は抗議のストライキすれば済むことだった。全収入を講義の月謝に依存している教師達はこれには為すすべもなく屈するしかなかったのである。しかし、その内容は今日のものと少し違う。ストライキの要求で知られているものを挙げてみるなら、
  ・教師は学生の許可無くしてみだりに休むべからず。もし市外に赴く必要のあるときは学生に担保を提供すべし
  ・教師は始鈴と共に講義を始め、終鈴とともに退出すべし。
  ・教師は講義をとばすべからず。
  ・難問題を説明不可能のまま退出すべからず。
  ・講義は全体をカヴァーすべし。

全体的には現代と対照的な尚学的な要求内容であることは一目瞭然である。
教師はこれに対し、カレジという組合を作り、教師の資格(=学位)認定で対抗することもあった。

これに対し、教師が中心的であった大学が、人文科学や神学研究の盛んなパリ大学であった。この学校はパリ司教座教会(ノートル・ダム)に属していたので、教師・学生共に外来者ながら僧籍扱いとなり、共に市民権がなかったために、共同で universitas を作った。このため、当然教師が中心的地位を占め、後の大学の規範となった。
しかし、パリ市とパリ司教座教会(ノートル・ダム)の両方の保護下にあっては、自治が思うようにいかなかったため、幾度かの衝突の末にパリ市から独立し、教皇を多く輩出していたところからホノリウス3世以降法王直属になることによって1200年頃にパリ司教座教会(ノートル・ダム)から独立を果たした。しかし、教皇直属になっただけに教会からの干渉は多く、学問が完全な自由を得るのにはまだほど遠かった。


ルネッサンス

ルネッサンス時代は1400年頃、十字軍などの影響でイタリアに発生したと言われている。(異論は前のページの最後ら辺に書きました。) この頃にはどんな職業にも役立つ知識を備え、しかも魅力ある人物を育成することを主眼に据えて教育が行われた。

この頃の思想家のペトラルカは理想的な人間とは自己充足と公共心という2つの相反する徳を兼ね備えた人間のことであるとし、ヴェルジーリオはそれを教育理論に結びつけた。彼は『良い行儀作法について』という本の中で

教育の目的は単に学者を作り出すことにあるのではない。
人格を養い、多忙で競争の激しい大人の生活に耐えうるように自動を訓練することである。

とした。これは中世における特定の知識を記憶し、それを自分のものにするという学習姿勢と明らかに一線を画したものである。

その後、ヴィットリーノとグアリーノはこの流れを汲んでそれぞれマントヴァとフェルーラに大学を作った。当初は各々ゴンサラ家とエステ家のために開校されたものであったが、程なく才能ある貧家の子弟も受け入れるようになったという。

この中でも特にヴィットリーノは勉強は面白いものにすべきという立場に立って、ゲーム形式で授業を行ったりしたという。


参考文献及び参考サイト

ローマ帝国衰亡史

岩波文庫

ギボン

世界の歴史9

河出書房

鯖田豊之

ビザンティン

座右宝刊会 ライフ人間世界史

フィリップ・シェラード

ルネッサンス

座右宝刊会 ライフ人間世界史

ジョン・ヘイル

世界の歴史3 中世ヨーロッパ

中央公論社

堀米庸三

キリスト教帝国

講談社

五十嵐修

参考サイト

中世ヨーロッパの大学

参考サイト