×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

イスラムの教育


ウマイヤ朝

ウマイヤ朝時代初期には、形式の整った教育はなされておらず、ギリシャやペルシャの影響も希薄で、ベドウィンの要素が色濃く残っていて、教育の理想はベドウィンの美徳をそのまま継承し、勇気、忍耐力、正義遵守、隣人への義理、男らしさ、太っ腹、歓待、女性尊重、約束の厳密な遵守においた。
王侯はその息子をシリア砂漠(バーディヤ)に送り、純粋なアラビア語や詩歌を学ばせた。これは後のイスラムの教育の根幹となっていく。
平民は自国語の読み書きや弓矢、水泳ができる者を教育された者と見なし、アル・カーミル、すなわち「教育された者」と呼んだ。

ある程度形式の整った教育がなされ始めるのはアブド・アル・マリクの治世の頃からである。このころから王子の教育者として、改宗従属民かキリスト教徒の教師、または訓戒師が宮殿に常置されるようになった。ムバラッラドによれば、アブド・アル・マリク王は教師に対し、生徒には水泳を教え、短い睡眠に慣れさせよ。と命じたと伝えられている。
マタ、ジャウズィの『預言者伝』によれば後の世のウマル2世は、教師に対し、彼らに教える道徳的科目の第1は娯楽の意味を憎むこととせよ。娯楽は悪魔の仕業で、その結末は神の怒りを招くことだからだと命じている。

このころの平民に対しては、モスクが学校の役割を果たし、そこでコーランの誦唱者が毎週金曜日に『コーラン』と『ハーディス』の授業を行った。 イスラム歴の第2世紀頃には、小学校の基礎が作られ始めた。クーファではアル・ダッハーク・イブン・ムザヒームが謝礼なしの小学校(クッターブ)を造り、バスラではベドウィンの定住に伴い、料金を取って教育された学校が作られている。


アッバス朝

この時代には、現在世界各地で見られる学校の根幹が成立していた。モスク付属ないしはそのものである小学校(クッターブ)に、生徒達は6歳から入学し、『コーラン』を読本として、アラビア語と『コーラン』そのものを学んだ。
少年には読み書き、アラビア語文法、『ハーディス』、初等算術、詩が教えられた。方針は暗記重視で、暗記できた者は褒美として、ラクダに乗って町を歩かせてもらい、ピーナッツが投げ与えられた。
少女にも、その能力に適した低い水準の宗教教育が施されたが、踏み込んだ教育はなされなかった。

裕福な家庭は外国生まれの家庭教師を雇い、宗教、純文学、作詞法を教えさせた。このころの貴族の教育の理想像はイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』の次の言葉から伺える。

彼の能力をだめにしてしまうほど厳しくても
怠惰を楽しみ、それが習慣になってしまうほど優しくてもいけない。
できるだけ親切に優しく、彼に注意してやってくれ。
しかし彼らが言うことを聴かないときには
腕力に訴えてでも厳しく従わせるのをためらってはならない。

ここからも判るように、教師は鞭を以て生徒を教えていた。しかし、一般に教師の社会的地位は低く、極端な場合、裁判での証言すら認められず、『千一夜物語』などの逸話でも決まって教師は間抜けな者とされて小学校教師よりも馬鹿な奴という表現が使われている。次のジャーヒズの諺がそれをよく示している。

教師、羊飼い、それにいつも女の中にいる奴には決して助言を求めるな。

しかし、レベルの高い教師は一般に尊敬されていたようである。アリは次のように言っている。

私は例え一字でも私に字を教えてくれた人の奴隷だ。

教師達は一種のギルドを形成していたようである。教授達は一定の勉学コースを終えた者に公認された免状を授けていたらしい。

 

このころから、高等教育も始められていた。アル・マァムーンによって作られた知恵の館がその先駆けである。これは翻訳事務所、学林、公共図書館、天文台などを兼ね備えた現在の大学のような存在であった。
翻訳事務所ではアリストテレスなどのギリシャの古典などを訳し天文台では天文学を教えていた。(このころの病院は医学を教えていた。)学林では学生の食事、宿泊施設などが整備され、奨学金制度が導入されるなど、後世の大学に大きな影響を与えた。

ニーザミーヤを始めとする公的な神学校は『コーラン』と古代詩を教え、現在の人文科学の基礎を築いた。
学生達は正午頃から夕方の礼拝まで盛んに教師に質問していたという。
ここでは、1人の教師の舌に2人の復習教師(ムイード)がおり、授業の後で、できの悪い学生のためにもう一度講義を行った。
この学校は後にティムールのバグダッド攻略の2年後、姉妹校のアル・ムスタンシルと合併している。

後にニーザミーヤと合併したアル・ムスタンシルは入り口に水時計を備え付け、浴室や炊事場、病院や図書館などの設備も充実していたことをイブン・バットゥーダが伝えている。

このころ、各地にニーザミーヤ型の高等学林(マドラッサ)が建てられた。ここでは伝承学を教え、暗唱を重視したが、シリア〜アル・イラクに広く普及したようで、ヒッティによると、バグダッドに約30校、ダマスクスに約20校、アル・マウシルに6校以上、ヒムスに1校あったことが判っている。


アンダルシア

アンダルシアを支配したイスラム教とは既に、ギリシャ文明との接触で高度に洗練された人々だった。中でもコルドヴァのハカム王は、首都コルドヴァに37校の授業料不要の学校を設立したと伝えられている。

10世紀頃に建てられたコルドヴァ大学はカイロやバグダッドの大学より歴史が古く、『コーラン』、アラビア語文法、詩を中心に、神学、法学、天文学、数学、医学等の教科を学部に分かれて教えていた。享受は東方から招聘し、入学者数は数千人を数え、西ヨーロッパの有力者の子弟も殺到した。この大学は後のルネッサンス時代の大学の基礎をつくった。

更に上級の教育は『コーラン』の注釈、神学、哲学、アラビア語文法、詩などの他に、辞書編纂法、歴史、地理などを扱っていた。

アンダルシアは全体的に識字率が高く、オランダのドツィはほとんど全ての者が読み書きができたと伝えている。
それに対して、この時代のヨーロッパではほとんどが僧侶で占められる少数の学者がごく初歩的な学問を行っていたに過ぎない。

このため、アンダルシアでは初等教育教師は他のイスラム文化圏よりも高い評価を受けた。↓不落のトレド

レコンキスタが進展し、コルドヴァが陥落すると、その知識はグラナダ、セヴィーリャ、マラガなどの主要な他の大学に移された。これにより、セヴィーリャは数多くの文人王を輩出したので、アッシャカンディは次のように伝えている。

美果と棕櫚と柘榴は常に王と共にあり
宮廷は散文、詩文を問わず雄弁の中心となり
旺盛の一日一日が壮麗な祝祭と化した。
その王国史は、世々語り継がれ
人類の記憶に永遠に残るだろう悠揚たる大度と英雄的勲功に埋め尽くされている。

グラナダでは文明・美的洗練が往時のコルドヴァをも超越し、多くの詩人を輩出した。

グラナダ大学は神学、法学、医学、科学、哲学、天文学などの学部に分かれ、

世界はただ4つのことでできている。
すなわち、賢者の学問、貴人の正義、義人の礼拝、勇者の勇気

と言わしめるほどに学問が発達し、尊ばれた。カスティリアを始めとしてヨーロッパ諸国からは往時のコルドヴァ大学のように有力者の子弟が殺到した。

ルネッサンスはアンダルシアから始まったと指摘する学者もいるが、基本的に正しいのでは無かろうか。

参考文献及び参考サイト                
アラブの歴史 講談社学術文庫フィリップ・K・ヒッティ
アルハンブラ物語 岩波文庫ワシントン・アーヴィング
歴史序説 岩波文庫イブン・ハルドゥーン
大旅行記 平凡社東洋文庫イブン・バットゥーダ
参考サイト スペイン