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古代ローマの教育


王制期

ローマが未だにエトルリア諸都市やピュロス王とイタリアの覇権を競い合っていた頃、その教育方針はスパルタのそれと非常に類似し、イタリア征服の原動力になっていた。家族の権力は家長たる父親に集中し、女児、虚弱児、障害児が生まれたら、極端な場合戸外に棄てて死なせることさえ可能であった。健康な男児が生まれると重宝されたが、絶対的な父権と形式にうるさい宗教が彼らを規律正しい大人に育て上げた。結果として男児には父への服従、遵法、権威の尊重、戦時における勇気と犠牲精神、死の前の平静が要求され、女児には夫への貞節、多産が美徳として要求された。

知育は6〜7歳頃から父親の手で始められた。主な教科は読み書き、文法、算術、歴史で、ペンには金属棒、インクには木の実の汁を使って、削った板に書取をさせていたようである。この頃は父親が唯一、絶対の師であった。

しかし、この時代の子供達の多くはその時間の大半を労働に費やしていたため、充実した教育が行われやすい環境ではなかった。

学校はローマにも存在はしたが、一般的に教育は家の中で行われるものであったため、それは決して「公」のものではなく、単なる家庭教育の補助手段に過ぎなかった。それにローマでは「教師」というのは、一般に下賎な職業とされていた。


共和制期

この時代になると教育は家の中でのみ行われる伝承的なものでは無くなり始めたが、教育の機会は市民に限定されていた。その中でも特に上流階級の子弟の個人教育がほとんどを占め、それには個人の階級上昇意識が強く影響していた。

この頃になると、征服された南伊などからギリシャ人の奴隷が連れてこられ、教師として働ける者には他とは比較にならないくらい高い値段と高い身分が付き、買われた後は上流階級の子弟の家庭教師としてギリシャ語、弁論術を教えた。また、病気になられては大変なので下にも置かぬ待遇を与えられた。実際に彼らは出来の悪い生徒に体罰を与えることも可能だったし、例え与えたところで、よっぽどのことでもない限り親からクレームを受けることもなかった。

しかし一方で、ギリシャとの接触以前にもすでにローマには学校が存在していたらしい。ローマ最初の初等学校を開いたのは前3世紀半ばのスプリウス=カルウィリウスという人物とされるが、これはどうやら初めて授業料を取った学校であり、授業料を取らない学校はそれ以前から存在していたらしい。そのような学校で教師の役を引き受けた者はクストゥス(custus)と呼ばれる、主人の家で生まれ、読み書きを修得した奴隷であった。彼らは主人の息子の従者兼保育・教育担当者として働き、やがては教師化し、ギリシャ文化流入後は連れてこられた奴隷教師同様にパエダゴーグスと呼ばれるようになる。

こうして、ローマ帝国はギリシャのソフィスト達の教育を踏襲し、弁論術、すなわち人前での演説の影響力を重視した。そのため家庭教師達は、他人を納得させるための論理学の知識、道徳・国宝の知識、他から尊敬されるような人格、聴く者を引きつける豊かな表現力の養成に焦点を合わせて教鞭を執っていた。
しかし、こうした教育を受けたのは男児だけで、女児は例え良家の子女であっても機織りの技術ぐらいしか教わらなかったと考えられる。
キケローはこうした教育によって生まれた典型的人物で、後の教育に大きな影響を残したとされている。

一方では王制期のローマの教育の名残も強く見られ、これがギリシャ由来の教育と結合していった。その典型的な例といわれるのがマルクス・カトーで、その教育方法はプルタルコスの叙述に従うと、
子供に知恵が付き始めるとカトーは自分で引き取って文字を教えた。しかもその家にはキロンという名の教養ある奴隷で、多くの子供達を教えている教師がいたのである。しかしカトーは自分でもいっていたが自分の息子が自らの奴隷に叱られたり、うまく覚えないときに耳を引っ張られたり、これほど重要な学科について奴隷の世話になったりすることを欲せず、自分自身読み書きの教師となり、法律の教師となり、体育の教師となり、息子に武器の扱いや馬の乗り方ばかりでなく、拳闘をしたり暑さ寒さに耐えたり、(ティベリス)河の渦巻きや荒波を冒して泳ぎ渡ることまで教えた。また、カトーは自分の手で書いた大きな文字の歴史の本を書き、子供が家にいながら昔のことや先祖のことに関する知識から利益を得るようにしたと云っている。
というものであったらしい。


帝政期

ローマの共和制を葬り、帝政を始めたカエサルは実に様々なところに目の利く人間で、その才覚は戦場だけでなく、教育面にも遺憾なく奮われた。彼はローマの教育水準を上昇させるため、教養科目(アルテス・リベラレス)を教える教師に市民権を与えることにしたり、彼ら教師自身のために「カエサルのフォルム」内の国立図書館を彼らの研究所として設立し、勉学の機会と生活の糧を得る場所を提供した。この政策はだいたいの面において成功したようで、以後ローマ帝国の教育水準はどんどん上がっていった。

こうして、五賢帝の時代になると、子供達はギリシャ人家庭教師(パエダゴダス)につく他に、私立の学校に入学するという選択肢も持つようになった。

学校は12〜13歳までは男女共学であるが、その後は女児と男児で教育カリキュラムが分かれ、女児は女学校入門後音楽と舞踊を学び、比較的早い段階で教育課程を終えた。
男児は中学校に進学し、ギリシャ人教師についてギリシャ語、ギリシャ文学、ギリシャ哲学を学んだ。こののち、大学に進むものもあったが、大学は講義を聴き、論議するだけの場所であったらしく、ペトロニウスは彼らは一種の狂気に悩まされているのではなかろうか? もしこれらの演説が初心者に雄弁への道を切り開くのならば、堪え忍びもしよう。………なぜなら彼らはそこでは日常生活について何も見聞することがない………と評している。
謝礼は年2000セステルティウスで、現在の価格にして約15万円であった。


キリスト教期

ローマ帝国では数回の大弾圧を経て、キリスト教は受け入れられ、古代の英知の終焉と中世の到来とが足早に迫りつつあった。教会はキリスト教を国教として位置づけさせるのに成功した後、信者に教義や宗教儀式を教える目的で学校を設立した。

その時用いられた主な教科書は、キリスト教の教義を説明できる後継者の育成を目的に編纂された、質疑応答形式で書かれた『教義問答』であり、後にこれだけを教える教義専門学校までもが設立された。この学校で最も優れた成績を残したものがそこの教師となり、信者を教育するのである。

キリスト教が教育を重視した背景には、アレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスと云った人が学校教育の必要性を訴え、それに尽力したことに原因を持つらしい。

この頃になると教育は「神への奉仕の業」と位置づけられたが、当時の社会が停滞し、上昇方向を見失っていたため、比較的容易に受容され、定着した。

そしてキリスト教は古代の諸学問を圧倒し、皇帝ユスティアヌスが529年にキリスト教の学校のみを学校と認めるとしたほどに広まっていき、古代の叡智を邪悪な学問として追いつめ、ついにはゲルマン民族がそれにとどめを刺したのであった。

参考文献及び参考サイト

対比列伝

岩波文庫

プルタルコス

ローマの歴史

中公文庫

モンタネッリ

古代文学集

筑摩書房 世界文学大系

ペトロニウス他

ローマ人の物語

新潮社

塩野七生

参考サイト

古代ローマの奴隷教育

参考サイト

ローマ人の教育