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古代ギリシャ(アテナイ)の教育


アテナイでは古くから商業経済が活発で他文化との交流が盛んであった。
そのため、自由や芸術、弁論を尊重する気風が形作られ、後に西洋の思想の源流の一角をなすようになる。


初期の古代ギリシャでは、教育といえばまず古代の詩を暗唱することを意味した。これについてはプラトンもその著作の『プロタゴラス』の中で、

子供達が書かれたものを理解しようという頃になると、
学校では彼らに優れた詩人の作品をあてがって読ませ、
それらを暗記するように言いつける。

という記述を残している。しかし、一見なんでもないようなこの記述は重大な意味を秘めているのである。
プラトンは学校では彼らに優れた詩人の作品をあてがって読ませたとしている。書物の主な複製手段が写本であった当時、生徒一人一人にあてがう程の書物を得ようとするならば、仮にプラトンの想定している学校が、上流階級のためのものであったとしても、膨大な費用と労力、そして時間を必要としたのである。とても少数の哲学者が運営できる規模ではなく、ポリスの教育への関与が十分に考えられるのである。


一般教養

読み書き、音楽、体練術などの一般教養(マンキュクリア・パイデウェタ)は、初期から市民権所持者に必須のスキルとして受け入れられ、広く学ばれてきた。更にアレクサンドロス大帝の時代に、これに図画が加わり、後にギリシャから多くの学者や芸術家を輩出する素地となった。

一方でこれは幾何学や天文学などとも結びつき、後世において、哲学の予備知識と見なされるようになる。

中でも特に音楽は人間の道徳的性格に影響するため重要であると考えられ、現代に至までのほとんど全てのことがこの時代に論じ尽くされたといわれている。


古代ギリシャの青少年教育

古代ギリシャの文化史の権威ブルクハルトによると、青少年教育はポリスの関与を全く受けず、完全に私生活にゆだねられ、自宅か私立学校に依存していた。

しかし、同時代資料は先に述べたプラトンの記述のように「公」立学校が存在したと見ることの出来るものがほとんどである。ヘロドトスやトゥキディデスのようなよく知られた歴史家も学校について言及しているが、それは次に示すように学校に何か事件が起こったときである。それはすなわち、学校が既に存在していること自体が注目されるような希少価値の高いものでは無くなるほどに普及し、庶民の生活に定着していたことを意味する。

ヘロドトスによるとキオスの学校では、読み書きを教わっている子供達の頭の上に天井が崩れ落ちて、120人の子供達の内難を免れたものわずか一人という惨事が起こった。また、トゥキディデスはトラキア傭兵の一隊がミュカレーソスに侵入し暴虐の限りを尽くしたとき、ここには非常に大きな子供達の学校があり、ちょうどその朝子供達が校内に入り終えた頃に、その学校の中にトラキア傭兵がなだれ込んだことを伝えている。

在学生の数といい、朝から登校するシステムといい、文句なしに今日の「公」立学校そのものであるといえる。
しかし、所詮ボイオティア内陸のミュカレーソスやエーゲ海東部のキオス島は全くの農耕地帯にある小さな田舎町である。

どうしてこのような農村で行われていたことが、アテナイやシュラクサイ、テーバイやコリントといった大都市で行われていなかったことがあろうか。恐らくこのような小学校は初歩的なことしか教えていなかった可能性はあるにせよ、ギリシャ文化圏全土に分布していたものと思われる。

プラトンによると、生徒の親たちは読み書きや音楽よりはむしろ品行方正の方を気を付けてみてくれるように教師に頼んでいたという。


弁論術の発展

弁論術は、初めて雄弁の教師と称したシケリア・レオンティノイのゴルギアスによってアテナイにもたらされたが、たちまちの内に修辞学、弁証法と並んで市民権所持者の必修スキルとしての一般教養に取り入れられ、ソフィスト達が各地を旅行し、その技法を有償で講義するようになった。

やがて、イソクラテスを始めとするソフィスト達は学校を開き、生徒から高額の謝礼を受け取って生活の糧とするようになった。例えばイソクラテスの学校は謝礼は1000ドラクマで、ギリシャ全土から来た100人余りの生徒を擁していた。

ソフィスト達と同じく、プラトンやピュタゴラスの学派、ストア派なども繁栄を享受していた。
これは偏にギリシャ人が話す習慣と聴く習慣を持っていたことと、当時の奴隷制によるものである。当時、ギリシャはその労働を完全に奴隷に依存し、時折労働そのものを軽蔑する風潮さえ作り出していたのであった。こうして彼らに余暇(schole)が生じ、いずれの学派も一定の聴衆や弟子を得たのであった。

哲学者やソフィストは聴衆や弟子が集まったので、今度は彼ら固有の集会所、書籍や収集品を置く場所を必要とするようになり、青年の多く集まるギュムナジオンの近辺に土地を買い、学校を建てた。これらの学校は弟子や支持者の寄付を元手に校長が運営していた。中世の大学と同様である。

こうして歴史の表舞台に躍り出たのが、プラトンのアカデメイアとアリストテレスのリュケイオンであった。

アカデメイアはアテナイ郊外に建っていた英雄ヘカデモスを祀ったギュムナジオンの周りの森の中に開校された。ここではイデアが重視され、数論、幾何学、天文学、哲学的帰納法、音楽などといった科目が教えられた。

リュケイオンはアポロン・リュケイオンの聖所にあったギュムナジオンの近辺に開校した。運営者はアレクサンドロス大王を教えたアリストテレスのような大物の学者であった。

これらの学校は、一般教養の範疇に含まれる体育、音楽、修辞学などの他に図画、文法、数学といった教科を教えていた。
ローマの覇権がギリシャ本土を覆った後もこれらの諸学校は繁栄を続け、ビザンツ時代になってからはキリスト教に対する古代の叡智の牙城として存続した。しかしこれに強意を覚えた狂信者ユスティニアヌスはついにはこれらの学校を閉鎖してしまった。


ヘレニズム時代の青少年教育

ヘレニズム時代までには、ギリシャ人の識字率が急上昇し、教育はいよいよその需要を増した。そして少なくともこの時代からは確実に「公」立の学校が存在した。
ディオドロスは市民の全ての息子は文字を学ぶべきであり、教師の給与は市がまかなうものとするという法を引用し、その制定者の意図を資力が無くて自分で授業料を払うことの出来ない者は崇高な営みを奪われることになるだろうと考えたのであるとしている。

しかしこの頃に既に成立していた「公」立学校の運営資金は市の出費よりも寄付の方が貢献の度合いが大きかった。

寄付はヘレニズム君主からも行われ、ポリビオスはペルガモンのアッタロス2世がデルフォイに寄付したときのことを
教師達の給金が今後とも滞りなく払われる永遠の贈与となる額を寄付したと延べ、この王のペルガモン領内での出費の名目を得られる利益を教育家や[市民の]子弟の給与に充てるものであるとしている。

標準的な市民からの寄付としてはその代表例がテオスの碑文に現れている。それによるとこの市民は自由民の全ての子供達が教育を受けることを保障する金額を遺贈し、少年及び少女達を教えるようにと言い残している。


スパルタ教育(拷問教育)

厳しい教育のことを俗にスパルタ教育という。しかし、スパルタ人がその統治体制故取った教育方法は、我々が思っているものなど遙かに足元にも及ばぬものであった。

スパルタはもとを正せば海の民の一部を構成していたヘラクレスの子等、すなわちドリーア人の一派が立てた都市国家で正式名称をラケダイモンといった。スパルタ人達はメッセニアなどの諸国を攻略し、人工的に圧倒的多数を占めるペラスゴイ人やアッティカ人ら先住民をヘロータイやペリオイコイ等の奴隷階級に貶めた。そのため、市民の間では徹底的平等と24時間兵士でいることが奨励され、奴隷は徹底的に武力で制圧し、日常的に処刑部隊が巡回するという有様であった。奴隷の叛乱に備えて、スパルタ人達は日常的に兵営で生活し、結婚後も夜は兵舎に戻った。スパルタ市民は奴隷に少しでも叛乱の兆しがあれば、あるいは単なる度胸試しであっても、奴隷を惨殺することが美徳とされた。

そのため、スパルタ市民は臆病者と見なされると髭を半分そり落とし、一見してそれと判るようにされたあげくに村八分どころか国八分にされてしまった。

では、これからスパルタ人の一生を見ていこう。

スパルタ市民の子供が誕生すると親には養育権がなく、子供はスパルタのものとされ、すぐに長老の許に連れて行かれ、そこで


古代ペルシャの青少年教育

ペルシャ人は書籍をほとんどと言っていいほど残さなかったので、その情報源はギリシャ人の著作によることになる。

アケメネス朝時代には、クセノポンの記述を信じるならば、ペルシア人は全て正義を学ぶ公立の学校に自分の子供を通わせることが出来るのだが、子供を学校に通わせるのは子供を養うことが出来て働かせなくて良い者達であるとの記述が『キュロスの教育』という小説に残されている。これは小説だが、クセノポン自身ペルシャにいたこともあり、ペルシャ皇帝の侍医クテシアスとの親交もあったこともあり、ある程度信用できるものと見なして良いようである。

パルティア時代にも教育機関はあったようだが詳細は判らない。

ササン朝時代には、貴族と上流階級の子供は5歳〜7歳になると学校へいった。15歳まで一般教育と宗教教育がなされ、読み書きを覚えると共に、中世ペルシャ文学とゾロアスター教について早い歳からまなんだ。
この他、アヴェスタとザンド、アーチェリーとポロ、格闘技、楽器、音楽、歌、チェス、バックギャモンetc.のゲーム、ワイン、花、女 獣の乗り方etc.の一般知識も学んだようである。
アルダシールは7歳、バフラーム5世は5歳で入学し、フィルドゥシーによると、王子は 騎馬、アーチェリー、狩、戦闘技術、社交儀礼、祭典のしきりかた、弁舌etc.を学んだという。

一方この時代、女性は少数ながらも学校に行き、少なくとも一般宗教教育だけは受けたようである。 しかし、主要な家内スキルは家で学んだようである。また学校教育の賜物かどうかは判らないものの、一部の女性は市民法に精通していたらしい。   

エジプト同様、書記(dibir)のための学校があり、書記学校(dibiristan)と呼ばれた。


参考文献及び参考サイト

ギリシャ文化史

筑摩書房

ブルクハルト

図説古代ギリシャ

東京書籍

ジョン・キャップ+エリザベス・フィッシャー

ギリシア人の教育

岩波新書

廣川洋一

歴史

岩波文庫

ヘロドトス

戦史

岩波文庫

トゥキディデス

図書館の誕生

刀水社歴史全書

カッソン

キュロスの教育

京大学術出版

クセノポン

プロタゴラス

岩波文庫

プラトン

対比列伝

岩波文庫

プルタルコス

10

古代世界の生活

http://heartland.geocities.jp/zae06141/classiclife.html