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江戸時代の小学校『寺子屋

 

T.はじめに…

テレビ番組のひとつに「時代劇」があり、みなさんも「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」など題名を聞いたことはあるとは思います。

そういう時代劇は大体が「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」であり、悪人をこらしめて事件を解決します。

そういう時代劇には多くの場合起こった事件を報道する今の新聞の江戸時代版のようなものである「瓦版(かわらばん)」が登場し、大衆に事件の詳細を伝えます。しかしそのようなものから情報を大衆が得るには瓦版を用いる必要がありますが、ただ瓦版には絵が挿入されているといってもほとんどのことはかな・漢字で書かれており、そのため当時(都市部)の識字率は相当なものであると推測されます。

実際、当時の技術先進国ヨーロッパと日本の識字率を比べると

イギリス(1837年、大工業都市部)20〜25%

フランス(1793年)1.4%

日本(1850年、江戸)75%

とこのような結果となり、このような大衆の教育水準の高さを支えたのが

江戸時代日本の各地に存在した『寺子屋』なのです。

ここではその寺子屋について述べてゆきます。

 

U.寺小屋の成立

寺子屋というものは近世から、近代初頭にかけて主に庶民の子供に読み・書きなどの初等教育を行った私設の教育機関です。その起源は室町時代後期(1500年)ほどにまでさかのぼるのですが、寺子屋の本格的な普及は江戸時代、特に後期にかけて数は増加しています。

この理由としては江戸時代では商業活動が盛んになり、そのことが資源の開発・財貨の増加・交通運輸の進歩を促進し、そして都市の住民さらには農民の労働や生活までも商業・貨幣経済に組み込まれてそのため契約書・帳簿・書類・手紙などから文字を見たり使用する場面が増えたために初等教育を行う施設への需要が増えたことが理由といえます。

 

@読み・書き・(そろばん)の教育内容 

上記の高い識字率を維持した寺子屋の教育内容を見てみます。

 

 

1↓

2↓

      寺子屋の教科書におけるそろばんの有無     

寺子屋でどのようなことを教えているかは『読み・書き・そろばん』の三種類に大別でき、読み・書きを指導する寺子屋を第一類、それに加えてそろばんなどの算数を指導した寺子屋を第二類、その他のこと(習礼・画・茶・花・謡)も指導する寺子屋のことを第三類と分けてあらわしてみると、そろばんを教える第二類の寺子屋は上図を見て幕末にかけて第二類の寺子屋が急増していることが図1からわかりますが、全体の30%ほどしか存在していないことがわかります。また、大都会(江戸・大坂・京都)から遠い地域では商家の子供が少ないためか算数・そろばんの需要が少なく、図2からも第二類の寺子屋の割合は全国平均のものを下回っていることが読み取れます。

このように「そろばん」については全国どこの寺子屋でも学べるようなものではなく、寺子屋で学習することを一般に『読み・書き・そろばん』と総称して言うことにはいささか疑問を感じます。       

また寺子屋で指導に使う教科書については江戸時代だけで7000以上、一部では10000もの種類の教科書が刊行されていたといわれ、内容についてはかな・漢字の習得を指導したもの、そろばんの使用法を記述したもの、なかには商売人・大工・農民の専門用語を教えるものだとか、地方独自の地理や物産・生活習慣を教える教科書なども存在していて、いろいろ工夫をこらした教科書が刊行されていたのです。

また寺子屋が一般に普及してきたのが江戸時代後期ということも考えると江戸時代後期については一年あたり40〜50冊ほどの教科書が刊行されている計算となり、当時の教育に対しての熱心な姿勢をうかがうことができます。

 

 

V.寺子屋と小学校との摩擦、そして…

幕末になると国内外の情勢不安や社会的危機に日本がさらされたためか寺子屋の廃業数は、全体数が増えたこともあって以前のものよりも激増しましたが、そのぶん開業数も多かったために全体数では増加し、明治時代になっても寺子屋は存続していました。

 

しかし、「学制」などの教育関連法が施行され、小学校が各地に開校されると、小学校と

寺子屋との摩擦の間で寺子屋の数はしだいに減少していきました。

けれども、小学校の高い学費や新しい教育制度への反発はありました。例えば、『従来の寺子屋で行われてきた個別指導と違う教育法である一斉授業を行う小学校が大衆一般に不親切に映ったこと』などです。また、『通学に際して決められた制服を着ること、さらにイスに座って行う学習スタイルに堅苦しさをかんじたこと』なども反発の理由として挙げられます。

実際当時の新聞によると、大阪府ある小学校では当初300名いた児童数が30名に減るという事態に陥り、さらに残った児童のうちの半分に当たる15名が退学予定であると報道していました。その退学した生徒のほとんどが寺子屋に出戻りしたということです。

当時大阪の就学率は67%(全国平均40%)と全国トップクラスの高さでしたが、前述の大衆一般人の反発もあって当初、小学校はうまくはいかず、そして寺子屋もなんとか存続していけたようです。しかし、政府の圧力もあり寺子屋の数は急速に減ってゆき、明治10年ごろには若干の例外を除き寺子屋はほとんど姿を消してしまったのです。

しかし、欧米諸国が100年ほどかかって築き上げた近代国家の基礎を明治期の日本は

たった30年で築いたことを考えると、その30年の間に国を支えた人々は江戸時代に

寺子屋で教育を受け、また一般の労働力も寺子屋で教育を受けたために質も良質であり、

そのことが明治期の成長を支えたと考えても不思議なことはないと思います。

こういう観点から考慮してみると、寺子屋は明治期さらには今の小学校にも劣らないすばらしいものであったことがうかがえます。