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@律令体制以前

 

.日本と大陸の交流

 有名なものでは57年に北九州にあった奴国が当時の中国の王朝であった後漢に使節を送り、後漢の光武帝から「漢委奴国王」と刻まれた金印を受けとったことや、5世紀ヤマト政権の時代に中国の南朝に遣使した倭の五王などがあり、古くから日本と大陸の交流は盛んでした。

 

.渡来人の来朝

5世紀、ヤマト政権の時代になり、国内の統一がなされると、目は大陸・半島に向いていき、鉄資源を確保するために朝鮮半島南端の加耶諸国と密接な関係を結んでいた倭国は朝鮮半島北部の高句麗の南下に対応せざるを得なくなりました。そして、この朝鮮半島の騒乱の中多くの渡来人が海を渡って日本へやってきたのです。これによって様々な技術や文化が日本に伝わってきました。そして、その中でも有名なのはご存知の通り仏教です。

 

 こうして渡来人の来朝が活発となった中、重要なのは朝鮮半島中南西部の百済から来朝した王仁(わに)という人です。彼は「記紀」によると「千字文」「論語」を献上したといわれていて、また、日本に儒学を伝え、彼の来朝後漢字の使用が始まったとされています。つまりは日本における漢字・儒教の祖とされているということです。

 

 また、6世紀の初め以降、五経博士も度々来朝しており、学僧や文化人の来朝がさらに活発となりました。

 

.聖徳太子の影響

 6世紀末から7世紀初めにかけて活躍した聖徳太子は、遣隋使を派遣しましたがその背景には大陸文化の吸収という目的も存在したと思われます。

彼は経典の解釈書「三経義疏」を著し、これは日本仏教の原点的意味を持つものとなり、憲法十七条も日本で初めて統一的で道徳的価値観を成文化さして提示したものとなり、後の道徳教育・仏教教育に大きな影響を与えています。

 

d.初めての官設学校

 「日本書紀」によると、671年に百済から亡命してきた鬼室集斯が学職頭(ふむやつかさのかみ)(学校長官を意味する官職)に任命されたと記されており、これは、わが国最初の官設学校の創設を意味しているものと考えられます。ただ、これが後の大学の原型となったかはよく分かっていません。

 

 

 


A律令体制での学校制度

 

 大宝律令(701年制定)・養老律令(718年制定)は日本で最初の成文化された教育の制度を含んでいるのですが、大宝律令の全文は存在せず、注釈書の「令義解」などからでしか知ることができません。

 それによると、特に上流貴族の子弟を中央官僚に養成する機関として式部省大学寮、医薬関係に携わる人間を養成する典薬寮、天文・暦・漏刻などに携わる陰陽寮、など他にも様々な分野に携わる人間を養成するための組織がありました。また、中央に大学寮をおいたのに対して地方には国学を設置しました。

 

 

 

(大学寮について)

 

 

a.学習教科コース分け

 当初は2科制でありました。その2科とは儒学科と副教科的要素を持つ数学科。儒学科は後の明経道、数学科は後の算道です。(詳しいことは後述)

 

ア)儒学科

 この時代主流だった科目で「本科」とも呼ばれていました。簡単に言えば儒教の経典を学ぶ学科です。以下に学習する経典をあげてみます。

(必修)『孝経』『論語』

(選択)

    (大経)『礼記』『春秋左氏伝』

    (中経)『毛詩(詩経)』『周礼』『儀礼』

    (小経)『周易(易経)』『尚書(書経)』

 

 儒教の経典以外にも法律についてや、授業で使用する典籍の音読、つまり中国語の発音なども習っており、習字を習うこともあったといいます。

 ここで、「音読」というのは恐らく@漢音で読んでいたものと思われます。なぜなら、桓武天皇の治世には(9世紀前後)仏書・儒書ともに読むときに漢音で読んでいたとされているからです。また、後に仏書はA呉音、儒書は漢音で読むようになったそうです。

 

※@漢音…わが国で用いられている漢字音の一つ。奈良時代頃伝わった、中国の北方の字音     にもとづいたもの。

 A呉音…字音の一種。古代中国の呉・越の地方の発音がつたわって、国語化したもの。漢     音より古い。仏教語に多い。

    <両者とも意味は三省堂刊『三省堂現代新国語辞典』に拠りました。>     

 

 因みに、『尚書』は孔安国・鄭玄、『周易』は鄭玄・王弼の注釈書を用いる、といったような学習するときに用いる注釈書にも決まりがありましたがこれに関してはあまり実行されていなかったようです。

 

イ)数学科

 文字通り数学を学習する学科であり、

『孫子算経』・『五曹』・『九章』・『海嶋』・『綴術』・『三開重差』・『周髀』・『九司』・『六章』という数学に関する典籍9部から選択して学習します。ただし731年以後は『周髀』が必修とされていたようです。

 天体や暦に関する計算(『周髀』にあります)や、円周率・球体積に関する計算(『綴術』にあります)、多元一次方程式・三平方の定理(『九章』にあります)の計算などをはじめ、日々研鑚に励んでいたようです。

 ただし、これらの教科書は、暦、つまり天文学に深い関わり持つものが多く、学習するには単なる数学の能力だけでなく、哲学的素養や書を読むための漢文の能力が必要とされていました。

 少し話がずれますが、九九というのは中国では紀元前8〜5世紀辺りの春秋時代、日本では飛鳥時代から存在していたようです。

 

 

b.大学寮の構成員

ア)事務官

 頭(従五位上相当)・助(正六位下相当)・大允(だいじょう)(正七位下相当)・少允(従七位上相当)・大属(だいさかん)(従八位上相当)・少属(従八位下相当)、各1人

 

イ)教員

 儒学科:博士(従六位下相当)が1人、助教(すけはかせ)(正七位下相当)2人、音博士(従七位下相当)2人、書博士(従七位下相当)二人の計7人

 数学科:算博士(従七位上相当)が2人。

 

ウ)学生

 儒学科は400人。数学科は30人。

 

エ)雑用

 雑役に携わる使部20人、直丁2人。

 

 

c.学生生活

ア)入学資格

 1.五位以上の子・孫

 2.東西史部(やまとかわちふひとべ)の子、つまり記録員など文筆関係の専門職に従事していた人の子

 3.八位以上の子で特に志願する者

 4.国学卒業生で二経を理解し大学寮に志願する者

 

 1〜3については13〜16歳の聡明な者というのが条件であるだけで「聡明」か否かを決定する選抜試験のようなものはなかったようであります。

 ただし4については、式部省の試験を受ける必要がありました。

 優先順位としてはまずは年齢であり、その次に、五位以上の子・孫や東西史部の子が優先されました。

 

イ)さぁいよいよ入学!

 学生は入学に際して、酒食や布一端(約15.8m、律令体制での官吏の位階の中で最低の少初位の半年にもらえる布は一端、因みに最高位の正一位では100端)を束脩として師に贈ることが令によって決められていました。そして贈られた酒食などは教師達の中で分配されていたようです。

 まず科を問わず学生は『孝経』『論語』の中国音による読みを音博士から学び、そして博士・助教の講義を聞いてそれに通熟する必要がありました。

 

ウ)学生の生活環境・行事(以下の「月」はおそらく旧暦です。)

 10日ごとに旬暇、5月には田暇、9月の授衣暇といった休暇があります。因みに当時の官吏の休暇は月に5日でした。ということは学生の方が休みが少なかったわけですね。

 当然、庸・雑徭は免除されますが、釈奠(せきてん)といった大学寮固有の儀礼には必須参加でした。これは将来、官人となったとき様々な行事に参加しないといけないのでそのための予行演習のようなものだと考えられています。しかし、学生は釈奠の時以外は勉学の妨げになるからといって使役されることはありませんでした。また、学内の書籍を自由に閲覧でき、食事も支給されますが、音楽や雑戯にふけることはもちろん禁止されていました。しかし、琴を弾くこと・弓矢を行うことは禁止されておらず、学生のストレス発散のためだったとされています。

 他にも、学生は入学の前後関係なく年功序列でした。

 唯一学生が駆り出された行事について。 

 2月と8月には先述の釈奠が行われます。これは簡単に言えば儒教の祖、孔子を祭ることです。

 内容については、『孝経』など七種の儒教の古典から選ばれるテーマ(毎回の釈奠ごとにテーマを選定します)について論議をするといったものでした。

 ただ、それだけではなく、8世紀中頃から、それが終わると、酒宴があり、2月には学生が博士に向かって経義について質問したり、詩を作り、討論することがありました。8月の方では内論議と呼ばれる、禁裏において経義を学生と博士が討論するものがあり、9世紀以後慣例化しました。

 釈奠はその後簡略化されていき、儒教の祭祀としての性格が後退していきました。しかし、15世紀頃まで存続していたようで足利学校でも行われていたそうです。本格的には17世紀江戸幕府によって復興され、幕末・明治維新と共に衰退していきました。 

  

エ)試験について

 学生が受けていた試験についてです。ここでは本科(後の明経道)の学生が受けていた試験について説明します。

 

 ●まず、旬試についてです。旬試とは10日ごとの休暇(旬暇)の前日に過去10日間の内容を正しく理解しているかどうか、博士が学生に課すものです。これは「素読」と「講義」の2分野に分かれていました。

 「素読」の試験は、というと10日間の学習内容の中から1000文字を抜き出し、その中の1箇所の3文字を隠します。そして、その3文字をしっかりと含んだ上で全て音読することができたら合格です。この試験はその部分の1000文字全てを暗記していないと解けなかったので非常に難しかったようです。ただ、やはりすごい人がいて文選三十巻を全て暗記していた人がいたようです。

 「講義」についても、学習内容の中から2000字を抜き出して、文意を問う問題だったそうです。

 「素読」からは2問、「講義」からは1問の計3問出題され、3箇所中2箇所答えることができたら合格です。それができなかったら罰があったそうです。

 その「罰」とは律令で定められた五罪(平安期以後は五刑)の中の最も軽いもので「笞(ち)」であり、これは細い木の枝のむちで尻を数十回叩くことでした。

 

 ●さて、1年の最後つまり7月に歳試と呼ばれるものがありました。そこでは1年の学習内容から文意を問う問題が8題出題されました。

 

 

評価については ・8題中6つ以上正解…上第

        ・5つか4つ    …中第

        ・それ以下     …下第            とされました。

 

 試験官には大学寮では頭・助、国学では国司の中の学識者があたりました。ここで面白いことは、大学寮の教官が試験官とならなかったことです。何故かというと、彼らの歳試の結果が孝課と呼ばれる教員の勤務評定の材料となっていたからです。当時、官人への叙位は、数年間の孝課の結果を判断して行われていました。ですから、教官が試験官となると自分の位階が下がるのを恐れて、わざと下第を避けたりする可能性が無いとも言えなかったわけです。因みに、孝課を下す文章、孝文と呼ばれるものの作成期限が8月末であったため、その期限も考慮して7月に歳試を行っていたものとも考えられます。

  

 ●無論、卒業試験もあり、応挙試と呼ばれていました。 

 先述の大経と小経のうちから1つずつを選択するか、中経のうちから2つを選択し、二経について理解すれば卒業試験を受けることができます。(勿論、試験には出ませんが、それに加えて必修分野についても理解していないといけません。)内容は、理解した二経から文意を問う問題が10問出題され、8つ以上正解すると合格です。ただし、三経やそれ以上を理解している者は問題数が増やされたそうです。

 

 因みに数学科の生徒は9つの問いに対して全て正解すればすれば甲、6つだと乙合格となりました。数学科生徒に対する国家試験はなく、この卒業試験に合格すれば、甲合格は大初位上、乙合格は大初位下に叙位されました。

 試験は教科書から9問出題され6問正解すると合格でした。

 

 また、書生には実技試験が課され(勿論習字みたいなものです)、3段階評価のうち二つ目の評価以上で合格となりました。書生にも国家試験はなく、これに合格することによって叙位されました。

 

オ)退学について

 大学寮でも度が過ぎた学生には退学処分はありました。条件は以下の通りです。

    1.先述の歳試がで3年連続で下第とされた者。

    2.大学寮に在籍しているのにも関わらず9年までに卒業試験に合格しない者。

    3.1年の出席日数が100日未満の者

    4.国家試験で不合格だった者

 ただし3年連続で下第をとっていても「もう1歩!」と見込まれれば特別に退学が免除されることもあったそうです。それでも31歳以上になると退学となったそうです。

 ところで、学生が大学寮の師を殺害することも当たり前ですがいけないことでした。これをすると、律令体制下で特に重罪とされたものを指す八虐の中の「不義」に該当し斬罪など重い刑に処されました。退学どころではありません。これは当時、師弟関係というものが特に重んじられていた証でもあります。

 

カ)いよいよ就職

 さて、こうして無事に大学寮を卒業した学生達ですがその次は就職しないといけません、そこで、就職先といえば式部省です。しかし、それにも試験がありました、つまり国家試験です。その国家試験には4種類ありました。その4つとは、明経・明法・秀才・進士です。さて、これらについて簡単に説明してみます。ただし、詳しい説明はもう少し後でさせて頂きます。

 尚、国家試験に落ちるとその時点で大学寮は退学となります。

 ただし、国家試験に合格し叙位される場合でも、25歳になってはじめて叙位されました。  

1)明経の試験

 無論、応挙試と同じく二経と必修科目を理解していないと受験できません。 

 必修分野から3問、選択分野二経から各4問もしくは3問出題されます。

 評価は「上上」「上中」「上下」「中上」とあり、その下は全て不合格とされました。

 叙位に関しては「上上」「上中」のみで。「上上」獲得者には正八位下、「上中」獲得者は従八位上の位が与えられました。

 また、二経以上を理解しているものは更に高い位に叙されました。

 

2)明法の試験

 律令に関する問題が10題出題されました。成績が「甲」か「乙」ならば合格でした。

「甲」ならば大初位上、「乙」だと大初位下に叙位されました。

 ただし、この叙位は、数学科の生徒の応挙試合格後の叙位と同じであり、他の学科よりも低いものでした。加えて、大学寮の教官である、算博士・書博士・音博士は博士・助教よりも位階が低いものでした。

これには、奈良時代前後の律令体制の当時の社会では、実務的な「音」「算」「書」や「律令」より教養的な「明経」、儒学の方に重点が置かれていたことを示していると思われます。

そのうえ、当時の法は少し今から見ると変であったそうです。

というのは

《仏像を盗むより(修行を積み悟りを開いた人を指す「仏陀」の次の地位で、全ての衆生を救済しようという大きな慈悲の心を持った修行者を指す)菩薩の像を盗む方が重かったらしいです。しかも、盗んで、像に物を供えたり、大事に扱うと、つまり供養すると、罪が軽くなったそうです。》ということであったそうです。

 また、明法において特徴的なことは明経も紀伝(後述)も中国の書物を学ぶのにも関わらず、明法では日本の書物を扱うということです。

 

3)進士の試験

 国を治める要務について取り扱います。『文選』『爾雅』重要な教材だったそうです。『文選』『爾雅』の暗読ができる者として受験しているため、試験は政治の要務について論文形式で2題出題されるものに加えて、『文選』から7ヶ所、『爾雅』から3ヶ所を暗読するといった試験内容でした。暗読というのは、ある行の3文字が隠されその行を隠された文字を含めて読み上げるというものでした。これを『文選』では7ヶ所に、『爾雅』には3ヶ所に行いました。

 論文が適確で、暗唱10ヶ所中6ヶ所中正解すると及第でき、成績「乙」として大初位上に叙位されます。暗唱も論文も完璧ならば、成績「甲」で従八位下に叙位されました。

 

4)秀才の試験

 論文形式の問題が2題出題されました。成績評価は「上上」「上中」「上下」「中下」とあり、あとは不合格でした。成績「上上」ならば正八位上、「上中」は正八位下に叙位されました。「上上」「上中」の成績を獲得した者で蔭位対象者ならばその蔭位の階に1階高く叙位されました。

 ただし、この試験は方略試と呼ばれており、言語に絶するほど難しく、後に、受験資格が文章得業生2人のみに限られ、200年有余年の間に僅かに65人しか合格しなかったそうです。因みにのその合格者の中の一人に菅原道真が含まれています。

 

 

 


B平安期までにおける大学寮の変遷

 

 ここまでは律令体制における大学寮についてでしたが、その後大学寮の組織は整備され変わっていきました。

 

 大宝律令が制定されて数10年すると、教員のバリーエションも変化し、明法博士(正七位下相当、2人)・文章博士(初めは正七位下相当、初め1人、834年に2人となる)・直講(正七位下、初め3人、802年に2人となる)が720年代に設置されました。

 この頃、令で定められていた、大学寮の入学規定である身分・年齢制限が撤廃され、簡単な試験に合格することが入学条件とされました。ただ、それによって庶民に教育が広まったというわけではなく、環境に優れている貴族の子弟の方が断然有利でした。

  因みに直講の中には渤海への使節として赴いた人もおり、外交にも多少ならずとも関与することもできたということを窺い知ることができます。

 

 また、平安時代に入ると大学頭のその上に別当という役職が置かれ、親王や大臣・大納言の中の人が任じられました。この平安時代前期頃、大学寮教官や卒業生が学界のトップを占めることも多くなり、大学寮は最盛期を迎えました。ただ、同時期である9世紀初頭には、上・中流貴族の子弟の大学入学の強制などといった側面もありました。

 

 また、913年以来国家試験の受験資格が得業生のみに限られてより、国家試験の受験は専門学者養成コースという性格が強くなっていきました。それと同時に、大学は官吏養成というよりかは教養を身につけるための施設という側面が強くなっていったと思われます。

 

a.学習教科コース分け

ア)明経道

  律令体制下では紀伝(後述)や法律の分野や若干の中国語の発音も科目に分けることなく学習していたのですが、ここではそれが分離し、儒教の経典を学ぶ科目となりました。その他のことについては、大体律令体制下での儒学科と大差ありません。また直講は明経博士・助教に次ぐ明経道の教官でした。明経生の定員は370人でした。

  平安時代にかけての紀伝道の興隆に伴い衰微していきました。

 

イ)明法道

 ここでは先ほど述べた明法博士が教鞭を執ります。簡単に言うと律令について学ぶところです。730年に独立学科になりましたが、当時、実務的な法律学習得は教養的な経学と比べると重んじられておらず、高級貴族には法律学習得の必要があまりなかったために、平安中期には令制の衰微に伴って衰退していきました。明法道の教官ははじめ律学博士と呼ばれていましたが8世紀半ば明法博士となりました。

 明法博士の有名な人物としては、惟宗直本(これむねのなおもと)で、平安時代、養老律令の注釈集である『令集解』を編纂した人物として知られています。

 また明法生の定員は初めは10人でしたが、802年に20人に増やされました。

 

ウ)書道

 

エ)音道  

 学習コースというよりかは、学習科目の一つという要素の方が強くありました。中国古典の音読を学びました。

 

オ)算道

 これは、特に律令体制下の数学科と変わりないものと思われます。ただ、先述のとおり『周髀』が731年より必修となり、また、定員は30人でしたが802年に20人に減らされました。

 

カ)紀伝道

 ここでは、『史記』『漢書』『文選』などの漢文学を研究し、中国の歴史を学ぶところです。この史学的な要素を加えたのは717年から唐へ留学生として渡り帰朝した吉備真備であったそうです。

 名称は「紀伝道」ですが、教鞭を執るのは「文章博士」で生徒は「文章生」なので混同しないように注意してください。中国の唐や宋で、詩作や作文が重視されたのと同様に、紀伝道は平安時代から特に重んじられました。というのは文章博士を正七位下から従五位下に上げたのは、嵯峨天皇(在位809〜823)であり、これ以降、特に重んじられ、当代の学者の登竜門とされたということです。これにより、834年に文章博士が2人に増員されました。このときまでは文章博士のほかに紀伝博士というポストもありましたが、彼らは漢文学より史学について精通した人間で、808年に設けられましたが、834年にこれを停止して文章博士を増員しました。

 同時代頃文章道の興隆と共に、文章生となるための試験が行われるようになりました。大学寮が試験を行い及第者を擬文章生というものに補し、これは20人おりました。擬文章生試は春秋2回、『史記』『漢書』『後漢書』のどれかの素読の試験を課し5問中3問正解すると及第できました。

 そして擬文章生に加え、特別に宣旨を賜った学生などが、式部省(はじめは大学寮)が行う作詩の試験を受験し及第すると晴れて文章生となれました。

 文章博士としては、都良香や菅原道真などが有名な人物として挙げられます。

 この紀伝道では必ずしも経義に明るくなくとも、文藻(詩や文章を作る才能)に長けておれば、落第することなく、進士や秀才の試験が受けられたそうです。

 紀伝道では得に優秀な学生二人を文章得業生とし、3・5・7年のいずれかを経てから方略試を受けることが許されました。

 他にも、文章道の競争が激しくなったことにより、文章生を貴族化しようとする傾向が見られ、820〜827年の間、一時、文章生を良家、つまり上流貴族の子弟に限ったことがありました。

 

 

b.学生の暮らし・待遇

 730年には、得業生といって、上級コースの学生の枠が大学寮をはじめ典薬寮・陰陽寮に設けられました。彼らは衣服・食料を支給されました。大学寮では明経得業生は4人、文章・明法・算道では各2人の得業生が設けられました。

 8世紀末〜9世紀初頭の間には、貧困学生に対し試験を課し、その合格者への給費制度も設けられました。

 大学寮の学生は基本的に大学構内の直曹(じきそう)と呼ばれる寄宿舎で暮らしていました。直曹は各選択コースごとに設けられていました。その中の文章院に関しては10世紀半ばから、当時、文章博士など、紀伝道に通じた人を輩出していた、菅原氏と大江氏によって分掌管理されるようになり東曹長は大江氏、西曹は菅原氏が管理していました。

 また、平安前期から有力貴族が一族の子弟の教育の奨励のため、大学寮で学ぶ一族の子弟の寄宿施設を作り始めました。これが後述の大学別曹と呼ばれるものになりました。

 

 

c.大学寮経営とその行き詰まり

 大学寮は生徒に支給する食料を確保するために田を持ち、この田を勧学田といいました。また、施設維持や様々なことに関する費用のために稲を出挙、つまり、稲を貸し出していて、その利息を以って充てていました。

 しかし、出挙の制度そのものの崩壊や、別当による出挙稲・勧学田の私的流用などにより徐々に荒廃し、その上、1177年に起こった京都の火事で大学寮や勧学院・奨学院(どちらも後述)が焼けてしまい、大学寮はその後再建されることはありませんでした。 

 

 また、大学寮の荒廃に拍車をかけたのは、蔭位(おんい)の制でした。これは簡単に言うと父祖の功労によって子孫の身分を保証するというもので、つまり、父や祖父の位階によってその子孫に一定の位階が与えられるというものでした。しかも、大学寮から国家試験を受けて合格しても叙位されるのは25歳だったのに対し、蔭位の制では21歳で叙位され、そして、その位階も国家試験に合格して授けられる位階より、殆どが高いものでした。

このため、上流貴族が門閥化され、大学卒業後に受ける国家試験の役割というものが希薄になり、ひいては大学の教育的役割の衰退という結果につながりました。

 この蔭位の制度の濫用は平安末期にかけて次第に進み、徐々に大学寮は教育的役目を失い、形骸化していきました。

 

 大学の形骸化については、別の要因もありました。それは教官職の世襲や学派の形成です。というのは、初期こそ教官職の世襲や学派の形成は学問を活性化するよう働いていましたが、10世紀後半以降、各家の専門とする学問、いわゆる家学が発生し、固定化され、また学派の学閥化が進んでいきました。これにより、ますます、少数の家による、博士をはじめとした教官職の独占が進み、他氏族の人間が大学で学ぶことや、教官となること、つまり大学で学問の志を遂げることが難しくなり、大学が形骸化していったということです。

 

 

 

 


C大学別曹の誕生

 大学別曹というのは、奈良時代末期、朝廷が大学寮興隆のために貴族に一族のための寄宿施設を作るのを奨励したのが始まりで、平安前期に有力貴族が一族の子弟が大学寮で学ぶのを奨励するために設置した寄宿施設が元となっています。これが朝廷によって公認されることで、直曹に対して大学別曹と呼ばれるようになったのです。

 大学別曹には、別当や知院事などの職員がおかれ、大学の公認を受けているものの大学の管轄ではなく各氏族の財源で運営されていました。そのため、田を所有していました。学生はそこに寄宿し、学資・書物・食料、をはじめ様々な便宜を与えられ、大学に通っていました。

 大抵の大学別曹は平安時代後期の大学の衰退と共に本来の教育的機能を失っていきました。 

 さて、以下に、主な大学別曹を挙げてみます。

1.弘文院:最も早くできた大学別曹です。和気清麻呂の息子の広世が9世紀初頭に大学別当に就任したときに、私宅を開いて一族の子弟の教育施設として設置しました。ここでは、経書数千巻を所蔵していたと言われており、非常に学問に励みやすい環境だったと思われます。ただ、和気氏は必ずしも力のある貴族ではなく微力だったため、他の大学別曹に比べて早くに廃絶してしまっていたようです。

2.勧学院:821年に藤原冬嗣が設立しました。後に朝廷に公認され、藤原氏の下にあったということで、財源などは安定し最も繁栄した大学別曹となりました。しかし平安末期頃から衰退の一途をたどり、鎌倉時代の末には有名無実になっていました。

3.学館院:承和年間(834〜848年)に嵯峨天皇の皇后の橘嘉智子とその弟の右大臣橘氏公が設立しました。ただ朝廷に公認されたのは随分遅れて964年のことでした。後に藤原氏の興隆とともに衰微していった橘氏とともに学館院も衰退していきました。

4.奨学院:881年、平城天皇の孫で在原業平の兄、行平が在原氏をはじめ、皇族であり、天皇から姓を賜った源氏などの王氏の子弟の教育のために設立しました。平安末期には衰退していきましたが、別当職は形式的ながらも江戸末期まで存続しました。

 


D国学について

 国学は大学と同じく律令体制下で、地方豪族の子弟の教育のために各国毎に設けられた学校です。国司の管轄下にありました。ただ、大宰府にあった国学は府学と呼ばれ、筑前筑後、豊前豊後、肥前肥後の学事を司っており、200人余りの学生がいたそうです。

 教科書や教授法・試験・休暇など広く大学に準じていました。

8世紀の聖武天皇の時代には毎国に国博士がいたのを3、4国に1人と一部の国にしか設置されなかった時期もあり、9世紀初頭にも畿内の国学が廃止されたこともありました。

 

a.国学の主な構成員

 学生の定員は国の大きさによって様々で、20〜50人でした。彼らを教えるのは国博士でその国もしくは隣の国から登用し、1人のみでした。また医学生もおり、この定員も国の大きさによって様々で4〜10人でした。また、医学生を教えるのは国医師で1人のみでした。

 しかし、大宰府学については少々異なっており、博士(従七位下)・算師が各1人おり、医師(正八位上)が2人、また音博士もいました。そして、平安初期には明法博士(従七位下)もいました。これは他国の国学と比べても相当充実していました。

 

b.入学資格

 1.郡司の子弟

 2.13歳以上16歳以下の聡明な者

 3.学生の定員に欠員が生じたときは庶民の子弟の入学も許可

 

c.教員の腐敗

 国博士については初めは自国または隣国から登用していたものの、このことは後には無くなっていきました。

 その他にも、試験合格や正規の推薦によって任命される受業博士(受業師ともいい、学生から見た教師の呼称)に対して正規の手続きを踏んでいない非業博士と呼ばれる者も9世紀頃から増加していきました。非業博士は、試験で不合格だった者を素読(A-c-エ参照)のみ試験して、式部省で採用して諸国の国学で用られていました。

 また、教官として仕事をせず、ただ禄を得ているだけの者も現れました。しかも、彼らの中には中央の官職についているなどして、二重に給料をもらっている者もおりました。

 

 ただ、一方で地方で、国学生を養うための田に関する命令など様々な国学、もしくは学問に関する命令が出ており、当時の国学は充実していたという側面も見られます。

 

d.国学の衰退

 その後国学は10世紀以降律令制度の衰微に伴う、公地公民制(土地人民の私有を許さないという律令制の原則)の崩壊と共に、一部の富裕層の大土地所有が進み、国司は徴税請負人としての性格を強く帯びるようになり、生徒を養う田を初めとする土地の確保など、ひいては国学に興味を示さなくなり、徐々に衰退していきました。そして、平安時代末期にはほぼ廃絶してしまいました。

 

e.卒業後の就職

 卒業すると、地方で採用されるかまたは大学に進むかでした。大学に進むには、また二経に通じているかどうか、式部省の試験に合格しないと進学できませんでした。大学に入学すると、通常の大学の学生と同様に就職への道を歩んでいきました。 

 

 

 


E最難関 方略試

 これは秀才科試験及びその後身の文章得業生の受験する試験のことをいいます。受験資格は、初期は卒業後の国家試験を受ける者なら誰でも受験できましたが、730年の得業生設置以来、試験に及第し擬文章生となり、また及第し文章生となり、その中でも特に優秀な二人となり、文章得業生となった者が、得業生になって以後、3・5・7年のいずれかを経てやっと受験ができるようになりました。

 試験では、二題の論文が出題されました。「方略」とは「容易に論じ尽くせない重要な問題」という意味で、言葉の意味する通り非常に難しいもので、幅広い知識・教養を持つ人物の選抜が目的でした。

 まず問題文で、200〜400字程度ありました。次ぎに、答案では古典にみえる故事成語・秀句佳言を引用し、四六駢儷体で書かれた500〜700字の文章が要求されました。この方略試を受験することを対策といいます。出題者は式部卿または式部大輔、もしくは少輔であり、出題者は必ず対策者とは違う、文章院の曹司の出身者から選びました。というのは、曹内での仲間意識が非常に強いものであったからです。

 方略試の難しさは凄まじいものであり、200年間で65人しか合格者がおりませんでした。これに菅原道真は25歳で一発及第したということはやはり学問の神様にふさわしいものがありますね。ただ、そのときの評価は、合格ラインすれすれの「中上」でした。ただ、歴代の方略試でも採点は厳しく、ラインぎりぎりで及第した人が多くいました。

 及第後は規定通り25歳になって(おそらく)正八位上に叙位されました。

 

 

 


Fその他の教育施設

 学習に不可欠なもの、それは書物です。現代は、図書館に行くなどして簡単に閲覧することができます。さて、その図書館、何時頃から存在していたでしょうか。

 日本初の公開図書館は芸亭(うんてい)と呼ばれるもので、貴族の石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が奈良時代末期に自らの旧宅を寺として外典(仏教以外の書)を蔵する院を設け、好学の者に閲覧させていました。

 そして、日本初の私立の庶民教育機関として、828年ごろ、真言宗の開祖空海が京都に綜芸種智院を設立しました。これは、主に貴族の子弟対象とした大学寮などに入ることのできなかった者たちを憂えたことから設立されました。「綜芸種智院」とは、儒教・仏教・道教の三教(儒の総合的学習〔綜芸〕による最高仏智〔種智〕への到達、という意味です。ここでは、文字通り仏道や儒教について教えていました。また院内には、仏教書や儒書などが蔵書としてありました。しかし、空海の死後まもなく廃絶してしまいました。しかし、その教育思想は現代にも受け継がれ、おそらくは空海ゆかりの教王護国寺の地に息づいているはずです。

 その後、大学寮も衰微していく中で教育は、貴族ならば自邸で親族や家庭教師の教授を受け、庶民ならば寺院などでごく基本的な教育をうけるようになっていきました。ここでも依然として庶民が高等教育をうけるということは極めて困難でありました。

 

 

 


G女子教育について

 女子は大学寮には入学できませんでした。そのため、貴族階級の子女は、親族などの教育を受ける事が多かったと思われます。そして、男性社会では大半の時期が漢文学が主流だった平安時代には、あまり漢文を読まず、男性がすることのない、和文を作るなど・和歌を詠じるなどしており、ご存知のように優れた仮名物語を生み出していきました。

 しかし、庶民階級の子女については、男性であっても教育を受けることが困難だったため、尚更子女に付いては教育を受けることが困難でした。

 ところで、ジェンダーについての社会認識が高まりつつある現代では書くのはやや憚られますが、少なくとも一昔前までは女性の仕事と位置付けられていたと思われる裁縫は、当時、上流階級の女性は行わず、鎌倉時代には裁縫を生業とする女性などがおり彼女たちが行っていました。


総括

 

 総じてこの時代は、貴族や豪族の子弟ばかりで、庶民の教育はほぼなされていませんでした。ただ、一つだけ庶民にも教育を受け、官位をもらう方法があり、それは国学に入り、それを卒業してから大学寮に入学し、そして卒業して官吏になるという方法です。ただし、まず国学に庶民が入学するには、先述の通り定員に欠員が生じたときのみで、その後大学寮に入学しても、蔭位の制にも頼れないため、よほどの好成績を収めない限り、最低レベルの位階にしか叙任されず、相当厳しいものでした。

 しかし、先述のように913年に国家試験の受験者が得業生に限られてからは、さらに貴族が門閥化され、庶民が高級官吏になることは不可能に近いものになりました。

 さらにより根本的な問題としては、庶民の子弟が国学に入学するに足る素養を身につけるような施設がほぼありませんでした。

 よって、庶民が高等教育を身につけること、まして高級官吏になることなど、不可能と言い切っても差し支えないほど厳しいものでした。