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1000年前に確立!?中国の庶民教育

 

 実は、古代から中世には学問とは富裕者のみが学ぶことの出きるものでした。事実、日本で鎌倉幕府が根本法典として1232年に公布した「御成敗式目」においても、武士の中で漢文を読める者が少ないために、分かりやすい文体で書かれたと言われています。このことからも、武家社会の中心の武士にさえ公式文書で使われる漢文の読解の教育が浸透していなかったことが窺われます。

 しかし中国では、御成敗式目よりも250年ほど前に成立した王朝の宋の時代に、もうすでに庶民の教育に対する意識が高まっていました。

 その背景にあるものとしては、宋代になると、皇帝による権力の集中が図られ、従来の門閥化された貴族主導の政治から脱却しようと、身分にあまり関わらず人材を登用する科挙が広まっていきました。それと、宋代の社会の質的な向上とが考えられます。そしてそれらが相まって、文字への欲求が高まっていきました。

 これによって、地方にも私立学校が作られていきました。そこで教鞭をとるのは、科挙に落第して地方に帰ってきた士大夫(文化的知識人)などでした。因みに科挙落第といっても法外に難しかったため(12〜13世紀頃の南宋では第1段階の地方試験でも厳しいときの倍率は100〜200倍、つまり合格率は0.5%〜1%)、きちんとした教養をつけている人が殆どでした。

 宋代の代表的な文章家として有名な蘇軾の手記には、自らが四川地方で幼少期に学んだ学校らしきもののことが書かれています。それによると、先生の下に100人ほどの生徒がおり、勉強しており、100人のうち、科挙に合格して中央の役人となった自分のほかに、役人となったのは1人だけで、それも村の下部官吏ということです。このことから、おそらくは、経書の解釈などといった高等教育は行われておらず、文字の学習などといった初等教育だったと考えられます。

 ここで、驚くべきところは、当時田舎であった四川地方の一つの学校に100人もの生徒が集まっていたのです。おそらくこのような学校は他にも複数あったものと考え、それらを累計すると、非常に多くの子供達が教育を受けていたということになります。

 他にも農村では、10月になると、農閑期を利用した「冬学」と呼ばれる学校に子供達を通わせていたりしました。

 また、先の手記での「先生」とは、科挙落第者などの本格的な知識を身につけている人間ではなかったと思われます。つまり、初等教育などでは、わざわざ知識人がいなくとも、おそらく、地元の人間たちが教育にあたっていたものと考えられます。これらのことは、単純な人数の大小ではなく、その数だけの子供達がもしくは子供の両親が教育ということに関して意欲を持っていたということの方が重要です。

 そのほかにも、唐代の末期には敦煌(唐の領土の西端、西域への門戸)の寺院で簡単な経書などの学問教育が学童に対して行われており、宋代を代表する港町・名だたる高レベル科挙受験地の福州では(農民といういわば下層階級の人間があまり多くなかったせいかもしれませんが)都市民の半分が科挙に応用できるような実践的な教養を身につけていたと言われています。宋代は日本の数段先を行っており、その先進性に驚くばかりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

草稿2 矢印とかのずれは気にしない

1000年前に確立!?中国の庶民教育

 

 実は、古代から中世には学問とは富裕者のみが学ぶことの出きるものでした。事実、日本で鎌倉幕府が根本法典として1232年に公布した「御成敗式目」においても、武士の中で漢文を読める者が少ないために、分かりやすい文体で書かれたと言われています。このことからも、武家社会の中心の武士にさえ公式文書で使われる漢文の読解の教育が浸透していなかったことが窺われます。

 しかし中国では、御成敗式目よりも250年ほど前に成立した王朝の宋の時代に、もうすでに庶民の教育に対する意識が高まっていました。

 

T.背景

           宋代の社会の質的な向上などが考えられます。

                                    +               

       木版印刷術が盛んとなり、文字・経書の普及を助けました。                           ↓↓                

そしてそれらが相まって、文字への欲求が高まっていきました。

                     

宋代になると、皇帝による権力の集中が図られ、従来の門閥化された貴族主導の政治から脱却しようと、身分にあまり関わらず人材を登用する科挙が広まっていきました。

これによって地方にも私立学校が作られていきました。

 

U.地方の私立学校の実態

教鞭をとるのは:科挙に落第して地方に帰ってきた士大夫(文化的知識人)などでした。

       

因みに科挙落第といっても法外に難しかったため(12〜13世紀頃の南宋では第1段階の地方試験でも厳しい時の倍率は100〜200倍、つまり合格率は0.5%〜1%)、きちんとした教養をつけている人が殆どでした。

 

実態は?:宋代の代表的な文章家として有名な蘇軾の手記には、自らが四川地方で幼少期に学んだ学校らしきもののことが書かれています。

     

それによると、先生の下に100人ほどの生徒がおり、勉強しており、100人のうち、科挙に合格して中央の役人となった自分のほかに、役人となったのは1人だけで、それも村の下部官吏ということです。このことから、おそらくは、経書の解釈などといった高等教育は行われておらず、文字の学習などといった初等教育だったと考えられます。

 

その他にも:農村では、10月になると、農閑期を利用した「冬学」と呼ばれる学校に子供達を通わせていたりしました。

唐代の末期には敦煌(唐の領土の西端、西域への門戸)の寺院で簡単な経書などの学問教育が学童に対して行われておりました。

宋代を代表する港町・名だたる高レベル科挙受験地の福州では(農民といういわば下層階級の人間があまり多くなかったせいかもしれませんが)都市民の半分が科挙に応用できるような実践的な教養を身につけていたと言われています。

 

 

V.ここで驚かなければならないこと

 当時田舎であった四川地方の一つの学校に100人もの生徒が集まっていたのです。おそらくこのような学校は他にも複数あったものと考え、それらを累計すると、非常に多くの子供達が教育を受けていたということになります。

 また、先の手記での「先生」とは、科挙落第者などの本格的な知識を身につけている人間ではなかったと思われます。つまり、初等教育などでは、わざわざ知識人がいなくとも、おそらく、地元の人間たちが教育にあたっていたものと考えられます。これらのことは、単純な人数の大小ではなく、その数だけの子供達がもしくは子供の両親が教育ということに関して意欲を持っていたということの方が重要です。

 宋代は日本の数段先を行っており、その先進性に驚くばかりです。