×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

中世温暖期の最初の切れ目


1.中世温暖期

図1:過去2000年の推定気温変化。Moberg他。さて、過去2000年の気温変化を示した図1のグラフを見ていただこう。Mobergの推計を採るにせよ、Mann & Jonesの推計を採るにせよ、535年の噴火の余波が収まった後、気温は上昇を続け、現在並の水準まで到達していたのが分かる。

気候が温暖化し、天候不順も少なくなったため、この頃の大陸地域では、中国の唐、中東のイスラム帝国、東地中海のビザンツ、新大陸の古典期マヤ文明などを始めとした諸文明がその全盛期を迎え、535年の破局で一度途絶えかけた東西の交易も完全に復活し、所謂「シルクロード」が全盛期を迎えていた。しかし、太平洋の島嶼部ではいささか困った事態が起きていた。今日もモルディヴやツバルで問題になっているように、この頃の温暖化で海面が上昇し、ポリネシア人達が住んでいた太平洋の島々が一部水没し始めたのである。

図2:ポリネシア人の拡散。『モンゴロイドの道』より。

図3:グリーンランドのアイスコアの堆積年代と氷の水素イオン濃度の関係。高い水素イオン濃度は火山噴火に伴う酸性酸化物による。『火山噴火と環境・文明』より。ポリネシア人達は、海面上昇のため居住面積が減って人口を支えきれなくなった自分たちの故郷を離れ、新天地を見いだすべく海に出て、今まで入植されていなかった最後の秘境ニュージーランド等に入植した[1]。伝承によると、ニュージーランドに入植した人々はハワイキの出身で、島内でのカニバリズムの要素も含む戦いに追われてニュージーランドに移って来たという[2]。ただこれには別な説もあって、この頃彼等ポリネシア人はニュージーランドではなく、西ポリネシアから見て比較的到達しやすいクック諸島、ソシエテ諸島、マルケサス諸島などの東ポリネシアの島々の島々に入植したのだという[3]

しかし、図1を見ると明らかなように、9世紀、それまで鰻登りに上昇し続けていた気温が突如急降下した。一体何が起こったのだろうか? 確かにこの気温の落差を考えれば、535年の時のように、火山噴火に結びつけたくもなるのだが、図3に見えるグリーンランドのアイスコア中の水素イオン濃度から見る限り、この時代に大規模な火山噴火が起こった形跡はない。強いていえば、800年〜850年にかけて小規模な火山噴火が連続したか(?)と言える程度である。火山噴火についていえば、この「寒の戻り」の後半の方が多い。この図からは分かりにくいが、864年に富士山が噴火し、930年代にエルジャ山が大規模に噴火したりしているのがそれである。

筆者は専門家でも何でもないので、積極的な判断を差し控えるほか無いが、この場で比較的穏当な判断を下すなら、「何らかの原因で寒冷化が始まり、富士山やエルジャ山の噴火がそれに追い打ちをかけ、寒冷化を増幅させた」とするのが今筆者に出来る最善の判断であろう。実際、9世紀に一度急降下した気温はまた上昇に転じたが、10世紀初頭にまた急降下しているのが図1からも明らかである。

最初の寒冷化の原因については、誰か専門家がそれを突き止めるまで筆者が疑問符を点けて残しておくのを、読者の皆様、どうかお許しを。全ては筆者の寡聞の為す所である。

いずれにせよ、最初の原因は判らないものの、温暖化しつつあった世界は一気に寒冷化し、ポリネシア人も前進の勢いをゆるめた。そして大陸部は激動の時代を迎えるのである。


2.マヤ文明の崩壊

図4:マヤ文字。マヤと聞けば、読者諸賢の内には、真っ先に図4に挙げたようなマヤ文字やグレゴリウス歴よりも正確とされるマヤの暦を思い浮かべる方も多いのではあるまいか。筆者もまさにその一人なのだが、自身が何故マヤの暦をイメージするかというと、古代マヤの文はほとんど例外なく暦で始まる[1]からである。中米においては暦は非常に重視され、マヤにせよアステカにせよ、文字体系を持ったメソアメリカの住民は新しい年が来るたびに、新年の到来を告げる石碑を建造するのを習慣にしていた。

しかしこの石碑が9世紀初頭頃までに徐々に建てられなくなっていった[2]のである。何があったのだろうか? 実はこの頃、マヤの社会を破滅的な危機が襲っていたのである。

535年の噴火でテオティワカンが崩壊し、その植民地支配から脱することに成功するや、マヤの諸都市の人口は急増の一途を辿った[3]。コパンを始めとする諸都市では収容可能人口の限界線を越えて人口爆発が起き、決して肥沃ではないマヤの土地は徐々に限界を迎えつつあった。

そんな中、「9世紀の寒の戻り」が起きたのである。寒冷化に伴い赤道低圧帯の支配領域が後退し、760年代頃を境にサバナ気候のマヤから雨期が消えたのである[4]。以後旱魃は、760年頃に2年間、810年〜820年に10年間、860年頃に3年間、910年頃に6年間と段階的に盛衰を繰り返し、特に862年頃のものは過去7000年で最悪の大旱魃となった[5]。収容人数を上回る人口を抱え込んでいたマヤの諸都市にたちまち危機が訪れた。雨期の雨に依存していたマヤでは、790年〜830年までの間に死亡率が出生率を上回るようになり[6]、ラマナイ等の周辺都市を除いては石碑を始めとする建築物が以後全く建てられなくなった[7]

石碑が建てられなくなったのには、マヤの諸王の権威の失墜も大いに影響した。ある意味でエジプトと似ていたこの文明では、王の存在意義は「雨と豊饒を約束する」ことにあった[8]。しかしここのところの大旱魃で雨は一向に降らず、飢饉がいよいよ深刻化していった。飢えて怒り狂った民は王を血祭りに上げ、王宮は炎上した[9]。中央の統制もなくなり、石碑を建てる余裕もなくなった民衆は石碑を建てることにほとんど関心を示さず、889年に建てられた10.3.0.0.0カトゥンの完了を告げる石碑はマヤ全土で5つに過ぎず、909年に10.4.0.0.0カトゥンの完了を告げるべく建てられた石碑に至っては2つしかなかった[10]

人口過剰状況下での飢饉の襲来は、直ちに残り少ない食糧の争奪戦の様相を帯び始めた。27万km2に500万人もの人間が犇めき合っていれば当然のことと言えよう。そのため、これまでも年中行事のように行われていた都市間での抗争は次第に、神への生け贄用の捕虜を捕らえるための小競り合いから本格的な殲滅戦へとその様相を変えていった[11]。こうして、打ち続く飢饉と戦闘のため、1000年頃までに、以前500万人あったマヤの人口の実に90%までが失われていったのだ[12]。天候が再び回復して中世温暖期が本格的にやってきた頃には、マヤには巨大な石造りの遺跡だけが残り、考古学者が再発見するまでは、雨期と共に戻ってきたジャングル以外にそこを見守る者はなかったのである。

今や廃墟と化したマヤの地の新たなる支配者となったのは、同じく乾燥化に追われたトルテカ人であった。彼等は後にマヤ・トルテカ混合文化を創り上げることに成功する[13]

異変は中米のみに止まらなかった。南米でも寒冷化に伴う大旱魃が起こり、現パラグアイ近辺に住んでいたトゥピ人は水を求めて大移動を開始した[14]。同じ頃、アンデスの山麓にも旱魃が到来し、535年の大噴火を契機に台頭してきたワリやティワナクの町は、修復や拡張の途上で放棄された[15]という。


3.ロシアの目覚め

図5:この頃のユーラシア遊牧世界。「9世紀の寒の戻り」は中央アジアにも旱魃という形で姿を現した。当時アラル海の畔にはテュルク系ペチェネグ人が暮らしていたが、この頃起きた乾燥化のため、アラル海の水が徐々に干上がり始めたのである[1]

今日、「アラル海が22世紀までに消滅する」という報道が後を絶たないが、この頃もアラル海は危機を迎えていた訳である。恐らく当時、アラル海沿岸は急速に乾燥して砂漠化し、家畜の食べる牧草も姿を消し始めていたことだろう。窮地に陥ったペチェネグ人たちは遂に故郷を捨て、水のある新天地を求めるべく西進することを決意した。

彼等は家族ぐるみで大挙西に向かい、行く先々で様々な遊牧民を糾合しながら、建国以来ずっとビザンツ帝国と連合してイスラム教の北進を阻み続けていたハザール人の国に迫った。

図6:ハザール王国とペチェネグ人侵入。同じ頃、ペチェネグ人の西に住んでいたハザール人も危機に瀕していた。恐らくは天候不順の結果、一種の救済を求めて、ハザールのオバデア王はユダヤ教を国教にすることを断行したのである。こうして史上類を見ない「非ユダヤ人のユダヤ教国家」が誕生した。しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い結果を生み出していった。元来ハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとかハザール人によって統括されていた国内の微妙な均衡を崩すことになっていった。

ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。そしてついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の一部は皆殺しにされ、一部は国外に逃れたのである[2]

ユダヤ教との支配者層は内乱には勝利したものの、ハザールの国力を完全に疲弊させてしまった。

そして、内乱が収まって漸く一息つこうかという頃に、新天地を求めて西進するペチェネグ人の大集団がやってきたのである。ハザール王国はほとんど何も有効な手だてを取れず、ペチェネグ人がワラキア方面に抜けていくまで拠点を保持するのがやっとだった。なお、この頃ハザール王国の支配下にあったウラル語族のマジャール人がペチェネグ人に追われるようにして、ドナウ川中流域に移動していった[3]。後に彼等が今のハンガリーを建国することになるのだが、このことはまた別のところで語るとしよう。

ハザール王国が弱体化したことで、この頃進出してきたヴァイキングと結びついて発展してきた、ドニエプル川沿いのキエフ・ルーシ諸侯国が漸く日の目を浴びるに至った。しかしこの時点では、彼等は未だスラヴ民族の民間信仰を持つレベルで、現在そうなっているようにキリスト教ではなく、イスラム教やユダヤ教にも改宗しうる余地があった。実際彼等の主君ボリスT世の許にはユダヤ、イスラム、キリストの3宗教から宣教師が派遣されてきていた。

こうした中、862年に再び寒冷化が勢いを取り戻し、ある不幸が神のご意向により、ボリスT世の領地に降りかかった。その不幸とは飢饉であったが、その飢饉の規模は今までになく大きく、・・・ボリスT世は遂にこの不幸な飢饉を逃れるために、キリストに祈るより他に手段が無くなった[4]という。そして、ちょうどこの頃来ていたキリスト教の宣教師が神に祈ってこの飢饉を和らげたため、彼はキリスト教を受け入れたと伝説は語る[4]。真偽のほどは措いても、ロシアは寒冷化の高じる中、キリスト教に改宗し、以後ビザンツ帝国の影響の許、現在ある大国への礎を固めていったのである。


4.西域と渤海

北アジアの西半がペチェネグ人の西進によって動乱の渦に巻き込まれつつある頃、草原世界の東半も気候変動にさらされていた。残念ながら、この頃の唐は後述するように、自国も崩壊の危機に瀕していたから、他国にかまっている余裕はなかったようで、その史書も自国に絡む事件以外は本当に重大な大事件しか扱ってくれていない。そのため必然的に遊牧世界の情報量は限られてくるのだが、それでもこの動乱がこれまでの秩序を完全に覆す程激しかったことは一目瞭然である。この頃、唐と共に東アジアを三分していた、ウイグルと吐蕃という2大勢力が全て解体してしまったのである。

暫く前からモンゴル高原には天災が頻発し、それに起因する牧民の動揺と内乱で[1]、安史の乱以降ずっと唐の後ろ盾になり続けたウイグル帝国は騒然とした状況に陥[1]り、一方の吐蕃(チベット)では仏教と民間で信仰されるポン教の両極を揺れ動き、815年には過激な仏教徒チェク・デツェンが即位して、ポン教を弾圧して暗殺されたかと思えば、続いて過激なポン教徒のラン・ダルマが即位して所謂「ラン・ダルマの破仏」を行って仏教徒に暗殺される[2]など、宗教抗争が続いていた。

この間に気候変動がどう起こったかについては、筆者の寡聞のためほとんど報告することが出来ないが、839年にウイグルとチベットの両方に破滅的な気候変動が起こったのは確かである。モンゴル高原ではこの年たまたま飢饉が起こって、遂に伝染病が発生し、また大雪が降って羊馬が数多く死んだ[3]ため、ウイグルが弱体化し、にわかに大頭目の句録莫賀はキルギスの騎兵10万と合同して回鶻城を攻め、可汗を殺し、掘羅勿を誅し、その本営を焼いたので、〔回鶻の〕諸部は崩壊した[3]。この時、句録莫賀と連合してウイグルを攻めたキルギス人は、恐らく寒冷化に伴ってバイカル湖畔から南下してきたものと思われる。同じ年、チベットでも異変が起こり、839年より〔吐蕃の〕国では地震が多く、川が裂け、水が噴き出し、岷山は崩れ、洮水は3日間逆流した。〔また〕鼠が作物を食い荒らし、人は飢えて、病気で死ぬ者が相次[4]ぐ事態に陥っていた。

以後、ウイグルは破れていて弱体であり、吐蕃も乱れて互いに殺掠しあっている[5]という有様で、そこには最早かつて唐と共に東アジアを三分した強国の面影など残ってはいなかった。ウイグルはキルギス人から逃れるようにタリム盆地に西遷し、吐蕃は以後長い分裂時代に入った。

図7:渤海と契丹。さて、話をモンゴル高原に戻そう。ウイグル西遷後、キルギスはモンゴル高原を保持し得ず、代わりに満州方面から出てきた契丹人が草原の主権を掌握した。契丹(遼)が繁栄し得た原因は偏に光啓年間(885年〜887年)天下に盗が起こり、北辺が多事となった[6]ことにある。契丹は〔これに乗じて〕奚・室韋等の小部族を鈔めて服し、幽・薊に入冦した[6]のである。

一方この頃、日本海北岸〜遼東半島にかけての土地を渤海国が治めていた。日本にも使節を派遣して新羅に対する軍事同盟を結んだりとなかなか日本にも馴染み深い国であった。この国の200年の前半は中世温暖期に当たって気候条件がよかったのだが、後半程悪くなっていった。それに伴い渤海国内の経済状況も悪化し、禁を犯してまで渡航し、日本と経済的交流を深めようとした[7]という。

しかし、日本が遣唐使を派遣しなくなり、渤海との外交の重要性のウェートが低下するに伴い、次第に日本と渤海の交流も希薄になり、遂に契丹が926年にこれを征服してしまったのである。


5.唐と黄巣

図8:唐、日本、新羅の700年〜910年頃までの気象災害の発生度合い。唐のデータは『新唐書』、日本のデータは『日本紀略』、新羅のデータは『三国史記』に各々拠った。図8をご覧頂こう。
この図は700年〜910年までの間を扱った気象異変発生頻度のグラフである。中国のデータは『新唐書』、朝鮮のデータは『三国史記』、日本のデータは『日本紀略』からそれぞれ採ったのだが、こうして見ると、780年頃に気象異変がまとまって起き、801年には唐に実に5件もの雹や霰が落ち、820年頃に異変はピークを迎えているのが分かる。874年頃までかなりの頻度で気象異変が観測されていた。822年には海が凍った[1]という話さえある。

864年には富士山が噴火し、866年は昼暗かった[2]という記述も残っている。

この時代の気候変動のため、唐では飢饉が頻繁に起こり、特に851年〜852年にかけてのものが特に激しく、859年〜873年にかけて農民暴動が頻発したという。このため、咸通の末年、連年の飢饉で黄河以南の土地では盗賊が蔓延った[3]のである。一方、例年の飢饉のため、政府の税収も著しく低下していた。政府は安史の乱以降専売化していた塩の値段を上げることでこれに対処しようとしたのである。玄宗時代の塩価は10銭/斗だったのだが、専売化によって110銭/斗になり、この頃玉座に座っていた徳宗の時代には370銭/斗にまで[4]膨れあがった。現在問題になっている「ガソリン価格高騰」顔負けの価格上昇である。例えば、今まで100円で買えていた学食メニューが3700円まで値上がりしたらどうなるだろうか? 通常は市場原理が働いてより廉価な学食の方に人が行くのだが、専売化のためそうも行かない。3700円の学食を食べるか飯抜きかの世界である。

いわばこのように、飢饉のため食べ物が無い状況下で生活必需品の塩までもが急激に価格高騰したのである。当然、塩の密売が横行した。政府はこれを厳罰に以て書するとして威嚇するが、そこまで来れば密売人も命懸け。飢饉のため蔓延っていた盗賊を護衛に雇って政府もなかなか手出しできぬまでに武装した。

政府の「支援取締」が強化されると、遂に873年、王仙芝を筆頭に、黄巣など私塩販売業者が一斉蜂起した。いつまでも改善されぬ世情に業を煮やした民衆もこの蜂起に続々と合流し、鎮圧に向かった政府軍をも次々と撃破した。彼等は中国全土を席巻し、南は広州を落として在留外国人12万人を殺し[5]、北は首都長安を落とすに至った。しかし、所詮黄巣は統治能力を持たず、関中で大飢饉[6]が起こり、京畿を骸骨が埋め[6]樹皮を喰[7]って命を繋がねばならなくなると、朱温(後の朱全忠)を始めとした人々も悉く黄巣軍を見捨てて官軍に降り、間もなく黄巣は狼虎谷で自決してこの乱は幕を閉じた。

しかし、この乱が終わって間もなく、黄巣を裏切った功績から皮肉にも、全忠という名を授けられた朱温の謀反で唐王朝もその幕を閉じるのである。どうも歴史は皮肉好きと見える。この後、宋が中原を統一するまで、五大十国の戦乱が止めどなく続けられることになるのである。


6.新羅と高麗

さて、今度は極東地域に目を向けてみよう。この頃、朝鮮半島には初めて半島の統一に成功した新羅、日本列島には律令体制化の日本など、唐の影響下で発展してきた諸王国が軒を連ねていた。しかし9世紀の手前ごろから、この諸地域にも気候変動の魔手が伸びてきていたようだ。以下『三国史記』に沿って新羅の気象異変をたどっていこう。

それが始まったのは恐らく754年頃からだった。この年の4月、鶏卵ほどもある雹[1]が降って来たというのだ。同じ年の8月には旱魃になり、蝗が発生[2]し、飢饉へとつながった。この頃から朝鮮半島の気候は坂道を転げ落ちるように悪化していく。768年の6月にはまたも季節外れの落雷と降雹とで草も木も傷つ[3]き、780年3月には土砂が降った[4]のである。この土砂が火山噴火によるものだったか、黄砂によるものだったかは恐らく永遠に判らないが、いずれにせよこの時代に旱魃が起こっていたことの証左といえよう。この後乾燥化は収まるどころか、次第に加速し始めさえした。780年正月ごろには黄砂または火山灰が辺りに充満し、首都に黄色い霧が立ちこめ3月には土砂が降り[5]さえした。

旱魃と平行して寒冷化も急激に進展しつつあった。789年にはなんと7月に霜が降りて穀物を傷つけ3月には土砂が降り[6]、790年には雪が3尺も降ったので凍死する者が出[7]、807年にはなんと8月に大雪が降[8]り、815年にも5月に雪が降った[9]というのだ。最早全てが狂い始めていた。815年ついに大変な飢饉で、盗賊が〔各地で〕蜂起し[10]、これ以後農民の暴動が頻発していく。翌816年の飢饉は五穀が実らず…〔唐の〕浙江省まで行き食を求めたものが170人もいた[11]ほど激しいものだった。無論このようなことができるのはごく一部の富裕層に限られ、庶民は餓死するままにほうって置かれたのであろう。820年には春夏旱魃が続[12]き、国民は飢え、子や孫を売って自分だけが生き延びた[12]という地獄絵が展開される。買った者は、買い取った人を奴隷としてすらなく、食用として扱ったことは言うまでもない。それでも天災は終わらない。828年には5月に霜が降[13]り、834年には五穀や果物が実らず、盗賊が一斉蜂起した[14]。政府当局は衰退し、盗賊を抑えようとするのも無理な話だった。

ようやく天災は一段落した。840年〜864年は比較的平穏な時期に恵まれた。新羅の政府と国民はこの荒廃から立ち直り、新たなる未来を切り開こうとし始めていたのだ。しかし運命はあくまで無情だった。864年富士山が噴火したのである[15]。一度持ち直していた気候はまた急速に悪化の一途をたどった。867年5月に疫病が流行した[16]のを皮切りに、同年8月には大水が出[17]各道でも五穀が実らなかった[17]。もはや絶望した国民はこのとき叛乱を起こした弓裔に加担した。有名無実化していた新羅政府は積み上げたトランプの山のように崩壊していった。しかし、弓裔は部下の扱いを誤り、王建に倒され、この王建が新羅政府を根絶し、高麗を建国したのであった。


7.菅原道真の祟りと武家の台頭

島国日本も唐、渤海、新羅を次々と飲み込んでいった破滅的な「9世紀の寒の戻り」から無縁でいることは出来ず、この破局を境に大きく姿を変えることを余儀なくさせられた。以前日本は先進的な唐の諸制度を模倣しながら、律令国家として繁栄してきていた。しかしこの後事態は急展開を迎えていくのである。

762年、諸国に旱害や飢饉が起こった[1]のがことの始まりであった。この後日本全土では断続的に気象異変や飢饉が起こり、783年にはこの異変のため移動し始めた蝦夷が南下し、(出羽の)雄勝・平鹿の二郡の住民は・・・各人本業を失い、甚だしく疲れ衰え[2]たため、三年間の租税の免除[2]をされるに至った。だが、この気象異変はごく小規模なものに止まり、790年までには世間は平穏さを取り戻した。

しかし今までの異変はほんの前哨戦に過ぎなかった。815年頃から事態は急変し、820年には凶作のため、全国で租税を免除[3]せざるを得なくなった。以後も飢饉は全国規模で続き、日本人全体が慢性的栄養失調に陥ったため、全国的に疱瘡[4]や咳逆病[5]が大流行した。874年には大風雨があり・・・京邑はどこもかしこも水に浸かった[6]。気候が荒れて飢饉が起こり、飢えた民は地方豪族を中心に日本各地で叛乱を起こし[7]、各自武装し始めた。一方、中央から派遣された国司たちもこれに対抗して武装化していった。以前も日本には兵士はいたが、大概の場合は農民から兵役によって徴収されていた者達だったことからして、これこそが武芸を専業とする武士の興り[8]であると言える。なお、禁中の護衛を務めた滝口も、このころから群盗が多発したことを受けて創設された[9]という。日本中世史の象徴とも言える武士もまた、気候変動の落とし子だと考えると実に面白いと言えはしないだろうか。

864年にはとうとう富士山も噴火し、図8に見るように、9世紀の最後頃から気候が止めどなく悪化し、様々な天変地異が続発した。しかし都では日本全土がここまで大混乱に陥ってる中でさえ、藤原氏を中心とした権力争いがいつ終わるともなく繰り広げられていた。そして901年、現在学問の神様として信仰を集め、太宰府天満宮や北野天満宮に祀られている右大臣菅原道真も権力争いの犠牲になり、時の左大臣藤原時平の讒言で太宰府に左遷され、その後2年で太宰府にて死去した。この後、道真の死を待っていたかのように大規模な天変地異が続けざまに起こる。旱魃や疫病が当たり前のように起き、落雷などの要因で菅原道真左遷に手を貸した人間が次々と死んでいったのである。人々はこれを「道真公の祟り」ではないかと恐れた。実際929年に起こった天変地異は『神皇正統録』の著者の同時代人のほとんどから道真の祟りと考えられ、その時のことをこう記している。

同7年己丑歳、菅丞相霊の祟りによって王城洛中で
大いに雷が閃き、大雨が降り、烈風が吹いた。
世界は□闇に包まれ、大洪水が家を押し流し、京白川の人民が多数で溺死した
[10]

これ以降、摂関家の威勢が及ぶ地域は事実上畿内に限定されてしまうようになる。こうした中で起きたのが、武士による関東での叛乱平将門の乱であり、海賊による瀬戸内での叛乱藤原純友の乱であった。以後、徐々にではあるが武士が発展していく。武士が主権を握るようになるまでには更に100年近くの年月が必要となるが、その時主役になる平家も源氏もこの頃に都から下っていった者達の末裔だったという事実は見過ごしてはなるまい。


8.第二次民族大移動

図9:第二次民族大移動。『世界史のパサージュ』より。ヨーロッパもこの寒冷化の危機と無縁でいられなかった。この頃から始まった寒冷化の影響で、ヨーロッパ全土で急激に氷河が前進し[1]、859年にはライン川が凍結しさえしたのである[1]。当初スカンディナヴィアでは中世温暖気を通して人口が増大し[2]、本国もいくらか手狭になりつつあった。人口が増えると当然食料がさらに必要になるのだが、このタイミングで「9世紀の寒の戻り」が生じたのである。国土の真っ只中を横切っている小麦栽培の北限はこれに伴って大幅に南下し、北欧全土で大規模な食糧危機が生じた。彼らに残された道は国土の脱出のほかになく、所謂ヴァイキングとして南方のヨーロッパに襲い掛かった。

同じ頃、ヨーロッパの東西でも破局が訪れていた。アイルランドでは748年に雪が異常な深さまで降り積もり、アイルランドのほぼ全域でほとんど全ての家畜が凍死した。続いて異常な旱魃のため、世界はからからに干上がった[3]という事件を皮切りに、続けざまに気象異変が襲い掛かった。753年には太陽が暗く翳[4]り、飢饉が起こり、ドングリや穀物が不足[5]し、764年から豪雪がほとんど3ヶ月降り続いた[6]ため、大飢饉が起き[7]パンが不足した[8]異常な旱魃と太陽の放つ熱のため、ほとんど全ての穀物が枯れ[9]、777年にも冬から夏まで一年中、豪雨と暴風が吹き荒れた[10]ので、飢饉が蔓延し、残った食料をめぐって多くの血が流され、致命的な疫病が蔓延した。牛の間にも疫病が蔓延した[11]という。アイルランドはもはや飢饉、疫病、内乱の三重苦に苦しめられ、折からスカンディナヴィアを脱してきた異教徒がブリテン諸島を荒らし回った[12]のである。彼らは902年まで断続的にアイルランドに侵入し続け、ありとあらゆる略奪行為を働いた。異変はさらに続く。799年には豪雪のため、多くの人と家畜が凍死し[13]、806年には凄まじい疫病が発生し[14]、810年には月が覆い隠され、ブリテン島で家畜が死んだ[15]。なぜ月が覆い隠されたかは不明だが、あるいはこの時期に火山噴火があったのかもしれない。この後には凄まじい雷が続き、山火事が多発した[16]という。続いて822年には異常な程に氷が張り、海や湖、それに川が凍り付いたので、馬や牛の群から君侯に至るまでがその上を横切った[17]ほどになった。このため、825年には大いなる疫病がアイルランドの島で蔓延して(特に)老人、子供、弱者を冒し、激しい飢饉と食糧不足に見舞われた[18]のだった。その後、気候は比較的回復し、890年頃まで小康状態が続いた。しかし、895年には豪雪のため、大飢饉にな[19]り、アイルランドで飢饉が起こった[20]。なお、912年と913年は暗く、雨が多かった[21]という。以後寒冷化は徐々に和らぎ、917年に雪や極端な寒さのため異常に氷が張り、主要な湖や川は歩いて渡れる程になり、家畜や鳥、鮭が死んだ[22]という事件が起こったのを最後に良好な気候が戻ってきたという。

一方、ビザンツ帝国では815年頃からそれから神の怒りによって、大地震や飢饉、洪水に猛暑が[23]起こり、855年頃には恐らく火山噴火によって灰が天から降ってきてれんがに舞い降りて血の赤で充たした。また多くの人々が道や庭園で血のように赤い石を見付け[24]るという事件も起こった。天候不順のため地中海一帯に飢饉が起こり、ビザンツも苦しんだが、それよりもなお、当時バルカン半島中央部を支配してビザンツ帝国と対峙していたブルガリアの人々が飢えに苦しめられている[25]ことが知られている。また、菅原道真の没した頃にビザンツ帝国でも絶え間なく雷が鳴り響き、・・・フォルムの階段で7人焼死した[26]という事件も起こっており、全般的にこの頃寒冷化が進行してヨーロッパの地中海岸まで寒帯前線が南下していたことが伺える。この寒冷化が徳に顕著になるのは930年頃で、ビザンツでは(12月)の25日に堪え難い冬の寒さとなり、120日ものあいだ凍りついた。それから大飢饉となってそれも限度を超え、そのために多くの人々が死に、生きている人々が死者を埋葬することもできなかった[27]という惨事が起き、同じく寒冷化が原因で、ブルガリアの人々はバッタによる大不作にひどく苦しめられて[28]いたという。

今や天災で疲弊したヨーロッパは先述のヴァイキング、ペチェネグ人に追われてやってきたマジャール人、それにイスラムの海賊などにより、3方向から余す所無く蹂躙されていた。このため、庶民は外敵の侵入から身を守る必要が生じ、手近な所にいる領主の荘園で働く代わりに庇護してもらうという封建制を導入していった[29]。また、ヨーロッパ社会は混乱状態に陥り、貨幣経済が衰退して自給自足的な現物経済が広まったのもこの頃である。戦後すぐぐらいから現代にかけて、「封建的」とはどうも悪い意味に取られがちだが、このことは当時の時代の必要に応じて出来たことを、賢明なる読者諸君、是非ともお忘れ無きよう。

ところで、ヨーロッパの外のキリスト教国エチオピアもこの被害を免れ得なかったようである。『エチオピア聖人記』の示唆的な記述をここに引用しよう。曰く、ヨハネスの追放が神を怒らせ、飢饉と疫病を招いたとされる。エチオピア皇帝はアレクサンドリアの大司教ヨセフに手紙を送り、一部の人々が道を迷ったために、大いなる苦難が我等の土地に降り、人々は疫病で死に、家畜は疫病で失われ、神は天を制御されたため、雨が降らなくなってしまったと述べる。この手紙を受け取った大司教は勇者を与えてヨハネスをエチオピアに戻すと、疫病は止み、雨は天から降った[30]ということがあったらしい。

なお、この気候変動の収束は1033年頃だったという。ブルターニュの修道士はこの時のことを、主の受難から1000年目、神の慈愛に答えるかのように、深刻な飢饉に続いて大雨を降らす雲が姿を消した[31]と大いに喜んで記録している。


9.ファーティマ朝の台頭


10.注釈と出典

1.中世温暖期

  1. ^ 『モンゴロイドの道』
  2. ^ アントニー・アルパーズ『マオリ神話』
  3. ^ ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』

2.マヤ文明の崩壊

  1. ^ マイケル・コウ『マヤ文字解読辞典』
  2. ^ マイケル・コウ『マヤ文字解読辞典』
  3. ^ キーズ『535年の大噴火』
  4. ^ ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』
  5. ^ ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』
  6. ^ マイケル・コウ『古代マヤ文明』
  7. ^ マイケル・コウ『古代マヤ文明』
  8. ^ ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』
  9. ^ ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』
  10. ^ マイケル・コウ『古代マヤ文明』
  11. ^ マイケル・コウ『古代マヤ文明』
  12. ^ ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』
  13. ^ 鈴木秀夫『気候変化が言葉を変えた』
  14. ^ 鈴木秀夫『気候変化が言葉を変えた』
  15. ^ 関雄二, 青山和夫『アメリカ大陸古代文明辞典』

3.ロシアの目覚め

  1. ^ 鈴木秀夫『気候変化が言葉を変えた』
  2. ^ ハザール王国の歴史
  3. ^ 鈴木秀夫『気候変化が言葉を変えた』
  4. ^ 『続テオファネス年代記』4巻.862年

4.西域と渤海

  1. ^ 杉山正明『遊牧民から見た世界史』
  2. ^ 小松原弘『日本人の目から見たチベット通史』
  3. ^ 『新唐書』4.142.2
  4. ^ 『新唐書』4.141.2
  5. ^ 『新唐書』4.142.2
  6. ^ 『新唐書』4.144.1
  7. ^ 吉野正敏『歴史に気候を読む』

5.唐と黄巣

  1. ^ 『新唐書』1.8.1.2
  2. ^ 『新唐書』1.9.1.7
  3. ^ 『新唐書』4.125.2.1
  4. ^ 陳舜臣『中国の歴史』
  5. ^ アブー・ザイド・アルハサン『中国とインドの諸情報』2.1
  6. ^ 『新唐書』1.9.4.4
  7. ^ 『旧唐書』1.19.2.3.2

6.新羅と高麗

  1. ^ 『三国史記』1.9.2.13
  2. ^ 『三国史記』1.9.2.13
  3. ^ 『三国史記』1.9.3.4
  4. ^ 『三国史記』1.9.3.4
  5. ^ 『三国史記』1.9.3.16
  6. ^ 『三国史記』1.10.1.7
  7. ^ 『三国史記』1.10.3.8
  8. ^ 『三国史記』1.10.4.7
  9. ^ 『三国史記』1.10.4.7
  10. ^ 『三国史記』1.10.4.8
  11. ^ 『三国史記』1.10.4.12
  12. ^ 『三国史記』1.10.4.12
  13. ^ 『三国史記』1.10.5.2
  14. ^ 『三国史記』1.10.5.8
  15. ^
  16. ^ 『三国史記』1.11.3.7
  17. ^ 『三国史記』1.11.3.7

7.菅原道真の祟りと武家の台頭

  1. ^ 『続日本紀』24
  2. ^ 『続日本紀』38.2
  3. ^ 『日本史年表』
  4. ^ 『文徳実録』5.5〜6
  5. ^ 『三代実録』7.1
  6. ^ 『三大実録』26.8
  7. ^ 『日本史年表』
  8. ^ 『日本史事典』
  9. ^ 『日本史年表』
  10. ^ 『神皇正統録』1.60

8.第二次民族大移動

  1. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』
  2. ^ 吉野正敏『歴史に気候を読む』
  3. ^アルスター年代記』U748.3
  4. ^アルスター年代記』U753.1
  5. ^アルスター年代記』U760.6
  6. ^アルスター年代記』U764.1
  7. ^アルスター年代記』U764.4
  8. ^アルスター年代記』U765.9
  9. ^アルスター年代記』U765.9
  10. ^アルスター年代記』U773.4
  11. ^アルスター年代記』U777.4
  12. ^アルスター年代記』U777.9
  13. ^アルスター年代記』U794.7
  14. ^アルスター年代記』U799.4
  15. ^ウェールズ年代記』810
  16. ^ウェールズ年代記』814
  17. ^アルスター年代記』U822.2
  18. ^アルスター年代記』U825.7
  19. ^アルスター年代記』U895.5
  20. ^ウェールズ年代記』895
  21. ^アルスター年代記』U912.8, U913.7
  22. ^アルスター年代記』U917.1
  23. ^シュメオン年代記』208
  24. ^シュメオン年代記』237
  25. ^シュメオン年代記』238
  26. ^シュメオン年代記』266
  27. ^シュメオン年代記』319
  28. ^シュメオン年代記』316
  29. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』
  30. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』
  31. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』

11.参考文献


1鈴木秀夫気候変化と人間原書房2004
2鈴木秀夫気候の変化が言葉をかえた日本放送出版協会1990
3『科学朝日』(編)モンゴロイドの道朝日新聞社1995
4ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳)文明崩壊草思社2005
5アントニー・アルパーズ井上英明(訳)マオリ神話サイマル出版会1982
6マイケル・コウ武井摩利(訳)マヤ文字解読辞典創元社2007
7マイケル・コウ加藤泰建, 長谷川悦夫(訳)古代マヤ文明創元社2003
8関雄二, 青山和夫アメリカ大陸古代文明辞典岩波書店2005
9デイヴィッド・キーズ畔上司(訳)西暦535年の大噴火文藝春秋2000
10ハザール王国の謎http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/_floorA4F_ha.html
11和田廣史料が語るビザンツ世界山川出版2006
12杉山正明遊牧民から見た世界史日本経済新聞社2003
13小松原弘日本人の目から見たチベット通史東京図書出版会2005
14二十五史http://www.hoolulu.com/zh/
15吉野正敏歴史に気候を読む学生社2006
16陳舜臣中国の歴史講談社文庫1990
17金富軾井上秀雄訳(訳)三国史記平凡社東洋文庫1980
18菅野真道宇治谷孟(訳)続日本紀講談社学術文庫1995
19黒板勝美(監修)国史大系10〜12吉川弘文館1999
20近藤瓶城(監修)史籍集覧臨川書店1990
21真壁俊信天神信仰と先哲太宰府顕彰会2005
22日本古代史料本文データhttp://kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/
23The Annales Cambriaehttp://www.fordham.edu/halsall/source/annalescambriae.html
24Celt Corpus of Electronis Textshttp://celt.ucc.ie/publishd.html
25小林功のホームページhttp://homepage.mac.com/nikephoros/oha/index.html