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古代文明最初の大試練


1.破局の序章

紀元前3500年頃成立したメソポタミアのシュメール文明はそれからというもの驚くべき勢いで都市化し、考古学者ロバート・アダムスによる1960年の調査では、シュメールの全人口の実に80%もの人々が、少なくとも10haある定住地に住み着いていたという。しかし、この「過度都市化」現象も紀元前2200年には完全に終了した。

メソポタミアだけではない。同じ頃、エジプトでは古王朝が滅亡して第1中間期という暗黒の時期を迎え、中国では長江流域の良渚文化が突如謎の終焉を遂げ、それに代わるように黄河流域で夏王朝が勃興し始めている。本章で扱うのは、まさに「何が起こったのか?」ということである。では、この世界的な大変動は一体どうして起こったのかを見ていこう。

図1:Google マップを元に作成この頃滅んだメソポタミア北部の町テル・レイラン下方の町の掘割を調べたところ、この町のどこか北方で大きな火山の爆発があり、それによって大量の灰が大気中に放出されたという。

巨大な火山爆発の結果、1815年のタンボラ山大爆発のように、各地に厳冬が訪れ、何年か夏の来ない年が続き、時を同じくしてこの後298年間続く旱魃が始まった。

この旱魃は全世界規模のものへと発展したらしく、グリーンランドの氷床コアや、遠くはペルー南部アンデス山中の氷河で採集されたコアにさえ記録されている。

北大西洋循環は驚くほど急激に減速し、数年の内に、これまで地中海の湿った空気をメソポタミアに運び続けていた偏西風も弱まった。

こうして、各地に大旱魃が訪れ、破局が始まった。


2.アッカド帝国とウル

図2:1935年に、テキサス州スタートフォード付近で観測されたダストストーム異変はまず、テル・レイランの村に訪れた。何年も旱魃が続き、地表面の温度の急上昇に伴い、ダストボウル現象までもが発生した。ダストボウルは1930年頃のアメリカでも観測され、これによって住民がグレート・プレーンズから追い出された様はスタインベックの『怒りの葡萄』に詳しいが、一般に土地の荒廃に伴って起こる現象である。

左の写真は実際に1935年、テキサス州スタートフォード付近で観測されたものだが、こんなものが襲ってきてはたまらない。しかし、実際にこれはテル・レイランでも起こったのだろうか? 実はこの頃も同じものが観測されたと思われ、それを裏付けるような記述がいくつか残っているのだ。

それによると、この頃砂塵を巻き上げる者、7種の暴風[1]が吹き荒れ、大地は揺らぎ、〔・・・〕に満ち[2]闇が湧き上がり、山の面は覆い隠され[3]〔・・・昼〕は闇に代わり、天は暗くなった[4]という。
程なく、ダストボウルはメソポタミア中部のアッカド帝国や南部のウルでも起こるようになる。アガデでは全ての雨は天に帰し[5]砂漠の悪魔が静かな場所で絶え間なく唸[6]った。ここで言う砂漠の悪魔とは紛れもなくダストボウルのことである。ウルでも、暴風の〔手〕が上から降りかかって来[7]羊小屋の中には風が入って来[8]た。人々は空しく叫ぶ。「荒野へ、暴風よ戻れ!」[9]と。しかし暴風は立ち去ろうともしなかった[10]。 やがて空では荒野の灼熱の暑さを放つ[11]暴風の巻き上げる砂塵が、昼間の暖かい光、良い光を〈押し込めてしまい〉、国土には輝く太陽が昇らなくなり、夕方の星のごとく(ぼんやりと)輝くだけ[12]になった。暴風が洪水のごとく町々を破壊し[13]、巻き込まれた人々は死に、罠に捕らえられた羚羊のごとく、口は土に触れている[14]という有様になった。

絶え間ないダストボウルに太陽が遮られ、その上旱魃が起こると、穀物の生長が阻害され、アガデでは水のある土地には魚が居らず、灌漑されて出来た果樹園では蜂蜜も葡萄酒も出来ず、厚い雲は雨を降らせず、マシュグルムは育たなかった[15]という。当然のようにこの後、メソポタミア全域で飢饉が起こった。テル・レイランに住んでいた1万4000〜2万8000に及ぶ住民[16]は故郷を見捨て、水のある南へ向かった。北メソポタミアの崩壊は遊牧民にも他人事という訳には行かなかった。何千年も前から彼等アモリ人やグティウム人は冬にはメソポタミアで家畜に草を食べさせ、春になると平原に移動していたが、この頃には旱魃のせいで牧草地はほとんど砂漠と化していた。臨機応変な遊牧民は昔から旱魃の時にやっていたように、水が比較的安定して供給される川沿いに下流へと進んだ。いわば難民の大発生である。
しかし同じ頃、南の国々も飢饉に苦しんでいた。アガデでは人々は飢えのため四肢を激しく震わせ[17]ていたし、ウルの弱者も強者も飢えで果てていった[18]という御時世である。今でこそ難民には「かわいそう」というイメージが強いが、ただでさえ食べ物が不足している所に大量の「難民」がやってきて「私たちにも食べ物を」なんて言いだした日には、当然かわいそうでも何でもない。生き残ったなけなしの作物が育っている所に、食欲旺盛な山羊の群れが放たれ、牧草地に侵入したら、もはや血を見ることは必定である。この移動によって彼等遊牧民は南部の農業共同体と真っ向から衝突した。

サルゴン以来栄えてきたアッカド帝国はこの頃、長い飢饉とそれに伴う物価高騰に苦しみ無力化しており、ザグロス山脈の蛮族グティウム人が攻めてきても、もはや彼等を押し返すだけの力はなく、トランプの山が崩れるように一瞬で瓦解した。シュメールの民もグティウム人の支配を受けたが、英明なグデアの治世に旱魃が一時和らいだようだ。エンリルは主ニンギルスに温かい目を向け[19]洪水がその岸辺に戻ってきた[20]のである。エジプトに比べて、洪水と「戦う」イメージの強かったシュメール人でさえも、このことをエンリルの洪水、ティグリス川は豊作を約束する水をもたらした[21]と大喜びしている。この後、ウルクのウトゥヘガルがグティウム人を追い出すのに成功し、その部下ウルのウルナンムがウル第3王朝を立てた。

しかし、一難去ってまた一難。アッカド帝国が滅んだことで、北からの難民が一気に流入したのである。アモリ人は穀物を知らず、都市を知らず、その襲い来るや台風のごとくである[22]。お互いに命懸けであるから、この衝突は熾烈を極め、ウル第3王朝の君主達は再び飢饉が始まったこともほったらかし、全精力を傾けて「アモリ人撃退壁」を築き、アモリ人を撃退しようとしたが時既に遅し、旱魃が再開して果物の木が枯れ始め、ウルの当局がこれはおかしいと気づき始め、灌漑用水路を整備して激減した水量を増やそうとし始めた時には、ウルの後背地の人口は流入した「難民」で3倍にふくれあがり、ウルの当局は穀物の配給を大幅に削減したが、それも空しく、ウルの農業経済はまもなく崩壊した。

耕す者の居なくなった土地や維持する者の居なくなった運河は徐々に荒廃し始める。ウルの民は言う。「私の町の水路には泥が積もって、狐の住処がそこに造られた。水路の中には全然水が流れなくなった。それの世話人が去ってしまったのだ。私の町の耕地は大麦を全然産しなくなった。それの農夫が去ってしまったのだ[23]」。もはやこうなってしまっては、後は塩害あるのみである。後代ほど激しくはなかったとはいえ、川には今や塩水が流れ[24]るようだから、復興にはなお3世紀余り要したという。

なお、この頃を境に、メルッハ国、すなわちインダス文明の記録が現れなくなると言う。インダス文字が解読されていない以上、踏み込んだことは何も言えないのだが、恐らくインダス文明もこの火山噴火の煽りを受け、メソポタミアまで貿易船を送る余裕を失ったのではないだろうか。


3.エジプト古王朝の最期

エジプトはナイルの賜物[1]」という有名な言葉がある。ヘロドトスが先輩にあたるヘカタイオスの言葉を借りて、エジプトのことを表した者だが、まさに正鵠を射ていると言えよう。しかし逆にヘロドトスは、この地方に雨も降らず河も農地に溢れ出すことが出来ぬ限り、飢餓に悩むことは必定であろう[2]とも考える。まさにその通り。実際この時、ヘロドトスの考えた事態が起こったのだ。

テル・レイラン北方の火山噴火の後の大干魃で、第5王朝末期からナイルの水量は減少し始め、第1中間期には平常時の15〜20%も水位が低下していた[3]

図3:第5王朝期のレリーフ。砂丘上に野獣や小木が描かれている。
図4:2500 BCE頃のレリーフ。

ナイルの水量が20%近くも減少するような大干魃が起こると、当然その影響はエジプトの方々に現れた。上や左に見える第5王朝期のレリーフでは、砂丘上のあちこちに小木や動物が描かれ、家畜も繋がれてはいない。

しかし下の第1中間期以降のレリーフになると、動物は繋がれたり檻の中に入ったり、砂丘上からも草木が消えたりしており、旱魃の影響を強く窺わせるものとなっている[4]。ここでは判らないが、鈴木秀夫は砂丘上にあった植物を、イチジクやアカシアであったと考えている。

図5:砂丘上からは植物が消え、野獣は繋がれる。12王朝期のもの。図6:18王朝期のもの。

※図版解説※

 ・図3:第5王朝期

 ・図4:第4王朝期

 ・図5:第12王朝期

 ・図6:第18王朝期

 ・図7:第18王朝期
図7:第18王朝期のレリーフ。家畜の警備が厳重になっている。 

当然、この大旱魃の影響はエジプトの砂丘のみに留まらず、リビアやレバント、人口の密集していたナイル渓谷等をも直撃した。国中に砂漠が広が[5]り、上エジプトはからからの〔荒地〕[6]になった。ナイルの水位は異常に低下し、エジプトの河は干上がり、徒歩で水を渡ることが出来[7]るようになり、人々は航行のための水を捜す[8]有様である。ナイル川の異変は水位低下に留まらない。河は血だ[9]というのである。これは後年モーセの奇跡の一つにも数えられ、青ナイルと白ナイルの流量のバランス変化の影響ともされるが、詳しいことは不明である。いずれにせよ、ナイルの水質が著しく悪化したというのが真相だろう。

大旱魃の後に飢饉がやってきた。食べるものがな[10]くなり、どこにも穀物はない[11]のである。人々は「何か食べ物があれば(良いのに)[12]」と思っていたが、辺りではメソポタミア同様ダストボウルが吹き荒れ、それが巻き上げる砂塵で日輪は覆い隠され[13]、太陽は光を放たず、人々は見ることも出来ない。雲がそれを覆い隠すのである[14]。エジプト人が主神として崇めてきた太陽神〈ラー〉は夜闇を〈しっかり確保している〉月のように(しか)天に存在しないから[15]その影を算定できず[16]誰も正午がいつなのか判らない[17]ほどである。遂に食糧は底を突き、〔人々は〕草を〔食い〕、水と一緒に(喉に)流し込む。鳥の〈ための〉果物も草も見つからず、豚の口から〈飼料が〉奪い取られる。飢え〈の故に〉〔・・・〕、明るい顔は(どこにも)見られない[18]という凄惨な状況に陥ってしまう。飢饉のために人々は次々と死に、ほんとうに、人々は数少なくなって[19]しまった。

しかし腐敗した国家は無関心である。飢饉で民が次々と死ぬのに、〈神官達は〉準備されたもので腹一杯だ[20]し、国土は荒れ果てているのに、税は重い。穀物は少ししかないのに、升は大きく、いっぱいに溢れさせて量られる[21]という理不尽な事態が発生していた。国事を果たす官吏はもはや無く、なされることはなされないことのようである[22]という事態に民衆は堪忍袋の緒を切らした。全ての町で「勢力ある者を我々の中から追放しよう[23]」という掛け声の下、民衆は暴動を起こし、王都は一瞬にして破壊され[24]王が民衆によって廃された[25]。ファラオを神と見なしていたエジプト古王朝では考えられぬことである。ナイルの支配者を自称するファラオの無謬性が旱魃のため揺らいだのが最大の原因だろう。エジプトは内戦状態になり、数年争いがずっと(続いて)いる[26]ため、人心は荒廃し、人々は皆「国中に何が起ころうが知ったことか[27]」という態度になり、あちこちで平時には思いもつかぬようなことが頻発した。

エジプトが内訌を起こしている頃、レバントでも事態は急を告げていた。苛烈な旱魃に起因する飢饉のため、アモリ人(エジプト風に言うとアシア人)は大挙して移動し始めたが、その内の一派は現レバノンのビュブロスを破壊し[28]、大挙してエジプトに迫っていた。エジプトはどんな恐ろしい災害からもナイル川によって守られていると考えたためである。しかし飢饉で弱っていたエジプトは一致団結してこの侵入者に立ち向かうどころか、内訌でそれどころではなかったから、アシア人はいともたやすく国教の防柵を押し破り[29]、エジプト本土にアシア人がその強い腕でやってきて、取り入れの(最中の)人々の心を騒がせ、耕作のための牛を奪い去って[30]しまっても、エジプト人は何も出来なかった。あれよあれよと言う内にエジプトは隷属状態に陥って[31]しまい、州は荒れ果て、(国)外から来た野蛮人共がエジプトに(留まって)[32]しまい、デルタ地帯にはどこもアシア人から隠された所はな[33]く、夷共は至る所で(エジプト)人となって[34]いった。

ところで、飢饉に逐われて腹を空かしたアシア人が、程度の差こそあれ同じく飢饉に苦しめられているエジプトに流入したらどうなるか? 答えは簡単である。食糧は不足する一方なのに、人口が急上昇したのだから、飢饉は一層激しさを増し、この世は国中に満ちたアシア人を養うため悲惨で[35]あった。飢饉と戦乱に痛めつけられた人々は神の存在を疑うようになり、人々の目にはあらゆる神々の誕生の地へリオポリスはもはや地上にない[36]かのように映ったという。

この時代の終わり頃に生きたアンクティフィは当時を振り返ってこう記す。

私はヘファトとホルメルで暮らした。
・・・私の生涯では誰もが飢えて、地獄の砂山で飢え死にしそうな時代だった。
・・・上エジプトでは誰もが飢え死にしそうで、自分の子供を喰うほどであった。
しかし私は自分の家族を飢え死にさせぬよう努力した
[37]

そんな中、決断力を持ってこの破局に対処したのは、実力ある有能な豪族だけだった。アシュートのケティU世はダムを造って隣の州との境を閉ざし[38]、洪水で出た貴重な水を出来るだけ自分の州に留めることで水が干上がったエジプトの山に水を引き[39]ナイルの水をかつての目印より高く氾濫させ[40]高地を沼地に変えた[38]り、穀物を蓄え、飢饉に際して市民に穀物を自分の家族のために持っていくことを許し[41]たりして、自分の州の民衆を守った。

そうこうする内に、さしもの大旱魃も次第に下火になり、前21世紀のケティV世のころまでにはナイルの水位は完全に元に戻り、神を(年々)繰り返される(ナイルの)増水の如く敬うべし[42]という教訓が与えられるまでになり、前20世紀の第12王朝の王アメンエムハトT世の頃には飢える者はなく[43]渇きに苦しんだ者もなく[44]なったという。無謬性を覆されたファラオはこの後「神」としてではなく、民の「牧者」としてエジプトに君臨し、再び昔日の栄光を取り戻していった。


4.長江文明と禹の治水

図8:鈴木秀夫『気候と文明』より。原図では現在の中華人民共和国全域が扱われていたが、チベットやウイグルはそれぞれ漢字とは別の独自な文字を使用していたことを考慮し、割愛した。 図9:鈴木秀夫『気候と文明』より。中国語とその周辺言語での否定辞の分布。

皆さんは中国の地図を見て「あれ?」と思ったことはないだろうか。全国的に分布するという語尾を除けば、淮河を境にして、それ以北の華北地方では川の名前の語尾に“”(上古音“ĥar”)が付き、それ以南の江南地方では“”(上古音“kǔŋ”)が付く[1]。一般にはは「直角に曲がった川」、は「大陸を貫く大河」と解字されているようである[2]が、地図を見る限り、図8で見ると、北方の海河や疏勒河は特に激しいカーブを描いているようには見えず、南方の韓江や銭塘江も大陸を貫く大河には到底見えない。

では、一体由来は何か? 徐朝龍によれば、華北のはモンゴル語の“rool”、江南のはモン・クメール語の“krouŋ”に由来するという。川は、ヨーロッパの地名研究の成果によると、あらゆる固有名詞の内で最も変わりにくいのだという。さらに、北と南では「河」と「江」の他にも、「口」と「嘴」、「歯」と「牙」、「目」と「眼」、「頭」と「首」など、体の同じ部位を指す語彙も相違している。また否定語に関しても、北と南ではそれぞれ「不」、「無」と相違した文字を用いている[3]。黄河と長江の住民は、その系統からして全く違っていたのである。恐らく当時長江流域に住んでいた、良渚文化の担い手はまだ当時、江淮地方に・・・いて、しばしば乱を起こしていた[4]三苗、すなわち現在のミャオ族の先祖と考えるのが妥当な所であろう。

では、この2系統の異質な言語の接触と混合はいつ始まったか? 言語学はそれを約4000年前[5]と推定している。4000年前と言えば、言語から見ても明らかなように、黄河文明とは全く異質な性質を持った長江文明の良渚文化が崩壊し、中国「最古」の王朝と信じられてきた夏王朝が成立した頃である。では、一体その時何が起こっていたのか見ていこう。

図10:梅原猛, 安田喜憲『長江文明の探求』より。日本海の海面変動から気候変動を測定したもの。鳥取県東郷池から採取。

右図は鳥取県東郷池の湖底から採られた年輪の硫黄濃度を測定し、日本海の海水面の変動を見たものだが、これを見ても判るように、長江文明は紀元前2200年、テル・レイラン北方の火山が大爆発した頃から始まった大寒冷期を境に姿を消している[6]

では一体この寒冷期に何が起こったのか? 長江文明研究の第一人者徐朝龍は、多くの遺跡で、良渚文化の地層が往々にして洪水層の下に横たわっているという事実に注目する[7]

四川地方の歴史書『華陽国志』にもこれを裏付ける言及がある。曰く、昔唐堯の時代(紀元前2100年頃)、天に溢れるまでの大洪水が発生し、鯀がその治水に当たったが功績は挙げられなかった。〔そこで子供の〕禹が代わって担当し、江河を導き通し、諸々の河川を除き治め、天下の土地を培い、草木を養て上げた[8]

ここで江河という語に注目していただきたい。先ほども説明したように、「河」は北方系、「江」は南方系の言葉である。
禹の治水は黄河だけでなく、長江でも行われていたのである。治水が行われたのは、天に溢れるまでの大洪水が発生したためであるとされ、良渚文化が洪水によって滅んだことと合致している。

禹は洪水を治めることに成功したが、このことはずっと以前からの懸案であったようである。恐らく、火山噴火後の寒冷化に伴って局地的な豪雨が中国大陸を襲ったものと考えられる。更にこの後、現在の黄河流域の北方系の住民が黄帝に率いられ、大挙して南下してきた[9]。黄帝については紀元前2510年〜紀元前2448年に生きたとする説も見たことがあるが、『史記』によると禹は黄帝の玄孫、顓頊の孫に当たる[10]というから、夏王朝成立の紀元前2070年から、1代20年換算で逆算すると、黄帝の活躍した時期は紀元前2190年頃となり、ちょうどこの頃になる。ついでに、禹の祖父顓頊も共工の乱を平らげて水害を鎮めた[11]とあるから、洪水がかなり前から起こっていたことが判る。豪雨の後の洪水で住む場所を失った三苗の民は、蚩尤に率いられて北上し、海辺にあったため洪水の影響をもろに受けた山東の竜山文化の避難民と共に、黄河上流に避難しようとした。
遂に双方は相見え、軒轅(黄帝)は涿鹿(もしくは冀州)で戦争し、雨師、蚩尤を殺して帝に[12]なったという。戦いの経過については諸説あるが、山海経によると黄帝が派遣した応竜は水を蓄え、蚩尤は風伯と雨師を招き、暴風を恣にした。そこで黄帝は天女の〔魃〕妭を天下した。雨は止んで遂に蚩尤を殺した。ところが〔魃〕妭は天に昇り帰ることが出来なかったので、(妭)のいる所には雨が降らない[13]ようになったという。当時の気候の不安定さを如実に示す記述といえよう。別な説によると[14]、蚩尤は九黎族(ミャオ族の先祖)を率いて乱を為し、涿鹿の野での戦いの時には大霧を起こして黄帝軍を悩ませたが、黄帝軍は指南車を造って方向を知り、蚩尤を殺したという。

いずれにせよ、軍事面においては良渚文化や山東竜山文化の難民達は、黄河にやってきた侵入者に敗れたが、彼等が闘争、結合という過程を経て侵入者の文化と合体した結果、「夏文化」という新しい混合文化共同体を生み出したことは否定できない。


5.三内丸山遺跡の放棄

火山噴火の余波は当然、日本にも及んだ。人口30〜500[1]と諸説ある東北の三内丸山遺跡に異変が起きたのである。何と、前2160年を境に16年で気温が3.4℃も低下[2]したというのだ。往時、三内丸山遺跡の住民は魚介類と栗を主食にしていたのだが[3]、この急激な寒冷化によって事態は一変する。元来この集落の傍までうち寄せていた海岸線が一気に遠のいたのである。当然、この集落にあった船は陸に打ち上げられて使い物にならなくなり、漁業が急激に衰退した。その上、三内丸山の主食の双璧を為す栗も稔りが悪くなり、当然の成り行きとして食糧難が起こった。人口が増加し続ける中この食糧難が起こったのだから、被害は一層深刻なものになった。これは何も三内丸山に限った話ではなく、日本全国が同じような事に見舞われたようで、この直前25万人いたという縄文人口が3分の1近い7万5800人にまで[3]落ち込んだという。


6.出典・注釈

2.アッカド帝国とウル

  1. ^ 『ズー神話』181
  2. ^ 『ズー神話』302
  3. ^ 『ズー神話』199
  4. ^ 『ズー神話』303
  5. ^ 『アガデの呪い』121
  6. ^ 『アガデの呪い』255
  7. ^ 『ウル滅亡哀歌』3.110
  8. ^ 『ウル滅亡哀歌』1.1
  9. ^ 『ウル滅亡哀歌』3.111
  10. ^ 『ウル滅亡哀歌』3.112
  11. ^ 『ウル滅亡哀歌』5.188
  12. ^ 『ウル滅亡哀歌』5.190〜191
  13. ^ 『ウル滅亡哀歌』5.199
  14. ^ 『ウル滅亡哀歌』6.220
  15. ^ 『アガデの呪い』173〜175
  16. ^ ハーヴェー・ワイスによる推計。
  17. ^ 『アガデの呪い』183
  18. ^ 『ウル滅亡哀歌』6.227
  19. ^ 『グデアの神殿賛歌』2
  20. ^ 『グデアの神殿賛歌』5
  21. ^ 『グデアの神殿賛歌』9
  22. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』
  23. ^ 『ウル滅亡哀歌』7.269〜271
  24. ^ 『アガデの呪い』269

3.エジプト古王朝の最期

  1. ^ ヘロドトス2.5 ヘカタイオス断片301
  2. ^ ヘロドトス2.14
  3. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』
  4. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』
  5. ^ 『イプエルの訓戒』3.1
  6. ^ 『イプエルの訓戒』2.12
  7. ^ 『ネフェルティの予言』28
  8. ^ 『イプエルの訓戒』2.10
  9. ^ 『イプエルの訓戒』5.3
  10. ^ 『イプエルの訓戒』6.4
  11. ^ 『イプエルの訓戒』3.4
  12. ^ 『ネフェルティの予言』24
  13. ^ 『ネフェルティの予言』25
  14. ^ 『ネフェルティの予言』54
  15. ^ 『ネフェルティの予言』53
  16. ^ 『イプエルの訓戒』6.2〜3
  17. ^ 『イプエルの訓戒』2.14
  18. ^ 『イプエルの訓戒』9.2
  19. ^ 『ネフェルティの予言』51
  20. ^ 『ネフェルティの予言』22
  21. ^ 『イプエルの訓戒』2.8
  22. ^ 『イプエルの訓戒』7.4
  23. ^ 『イプエルの訓戒』7.1
  24. ^ 『イプエルの訓戒』13.3
  25. ^ 『イプエルの訓戒』2.4
  26. ^ ゲルハルト・ヘルム『フェニキア人』
  27. ^ 『ネフェルティの予言』33
  28. ^ 『ネフェルティの予言』19
  29. ^ 『イプエルの訓戒』7.5
  30. ^ 『イプエルの訓戒』3.1
  31. ^ 『イプエルの訓戒』4.6
  32. ^ 『イプエルの訓戒』1.9
  33. ^ 『ネフェルティの予言』32
  34. ^ 『ネフェルティの予言』57
  35. ^ ダンドー『地球を襲う飢饉』
  36. ^ 『ケティU世墓碑』7
  37. ^ 『ケティU世墓碑』6
  38. ^ 『ケティU世墓碑』7
  39. ^ 『ケティU世墓碑』10
  40. ^ 『メリカラー王への教訓』126
  41. ^ 『アメンエムハトT世の教訓』2.12
  42. ^ 『アメンエムハトT世の教訓』3.1

4.長江文明と禹の治水

  1. ^ 徐朝龍『長江文明の発見』
  2. ^ 藤堂明保『学研漢和大字典』
  3. ^ 徐朝龍『長江文明の発見』
  4. ^ 『史記』1.1
  5. ^ 徐朝龍『長江文明の発見』
  6. ^ 梅原猛, 安田喜憲『長江文明の探求』
  7. ^ 徐朝龍『長江文明の発見』
  8. ^ 『華陽国志』1.1
  9. ^ 梅原猛, 安田喜憲『長江文明の探求』
  10. ^ 『史記』1.2
  11. ^ 『史記』2.3
  12. ^ 『塩鉄論』8.43
  13. ^ 『山海経』17
  14. ^ 陳舜臣『中国の歴史』 私は寡聞にしてその出典を知らない。

5.三内丸山遺跡の放棄

  1. ^ 安田喜憲『縄文文明の環境』
  2. ^ 小笠原湖湖底の泥の調査結果
  3. ^ 久慈力『三内丸山は語る』

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7.参考文献


1鈴木秀夫気候変化と人間原書房2004
2ブライアン・フェイガン東郷えりか(訳)古代文明と気候大変動河出文庫2008
3金子史郎古代文明は何故滅んだか中央公論社2001
4杉勇(他訳)古代オリエント集筑摩世界文学大系2000
5アガデの呪いhttp://changhykw.uijin.com/curse_agade.html
6ETCSL projecthttp://www-etcsl.orient.ox.ac.uk/index1.htm
7ゲルハルト・ヘルム関楠生(訳)フェニキア人河出書房新社1976
8James Henry Breasted(編訳)Ancient Records of EgyptUniv of Illinois Pr.2001
9ダンドー山本正三, 斎藤功(訳)地球を襲う飢饉大明堂1985
10徐朝龍長江文明の発見角川選書1998
11徐朝龍長江文明の謎ふたばらいふ新書1999
12梅原猛, 安田喜憲長江文明の探求新思索社2004
13司馬遷小竹文夫, 小竹武夫(訳)史記筑摩学芸文庫1997
14高島三良(訳)山海経平凡社ライブラリー1994
15桓寛佐藤武敏(訳)塩鉄論平凡社東洋文庫1970
16常璩中林史郎(訳)華陽国志明徳中国古典新書1995
17鈴木秀夫, 山本武夫気候と文明・気候と歴史朝倉書店1978
18藤堂明保(編)学研漢和大字典学習研究社1980
19陳舜臣中国の歴史講談社文庫1990
20久慈力三内丸山は語る新泉社2000
21縄文世界http://www.mars.dti.ne.jp/~takiura/JyoumonSekai.html
22安田喜憲縄文文明の環境吉川弘文館1997