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中国の王朝交代と気候変動


図1:気候変動による生き残りをかけた食糧・水・燃料の争い。http://www.teamrenzan.com/archives/writer/より。現在のモデルに設定されている。先程、プロローグとして図1に書いてあるような事を紹介した訳であるが、これを長いスパンで見てみたら、どういう規則性があるかはいささか判りにくいかも知れない。

なので、史料が豊富に残っている中国を例にとって考えてみよう。長いスパンで見ると中国では、寒冷期が訪れると北方から遊牧民が押し寄せて中国を支配し、温暖期が訪れると南方の江南などで経済が活気づいて中国全域に影響を及ぼしていた。

「偶然ではないか?」あるいは「その当時偉大な指導者が現れたからではないか?」と思われる方も少なからずおられよう。なるほど、偶然その時期に偉大な指導者が現れ、戦争などを経て今までの状況を根本から変革した、という事もあり得ない話では無かろう。

しかし、飢餓は実際的な戦争原因の最たるものであり、また大規模な流行病発生の際のほとんど必然的な準備段階をなす[1]という広く確認された事実がここで突きつけられる。時代の根本的な変革には民衆の力がなければ、偉大な指導者の理念も単なる「思想」に止まってしまうのだが、気候変動が起こり、長期的な飢饉が発生すると、飢餓に苦しむ人はしばしば怒りっぽくなる。深刻な慢性的な飢餓は事態の改善を望み始める怒りっぽい人々を生み出すのである[2]。すると前述の通り、人々は状況改善のために武器を取って動き始めるのである。

図2:Googleマップを元に作成。図2を見てみよう。中国では昔から秦嶺が夏に吹く海からの季節風も、冬に吹く大陸からの季節風も遮っていた。このため秦嶺・淮河ラインに大きな気候の落差があり、これ以北の華北は寒冷乾燥な気候で畑作・牧畜を中心とし、以南の江南は温暖湿潤な気候で稲作を中心としていた。[3]

古来よりこのラインより南の温暖湿潤な江南では北に比べ、寄生生物が蔓延しやすく、疫病が盛んであった。しかしこの疫病もこのラインより北の華北では寒さのため生きていけなく、滅多な事では北で勢力を持たなかったため、華北の人々は江南の人に比べ、疫病に対する免疫が弱かったようだ。このことは遙か司馬遷の時代から有名だったようで、『史記』には長江の南は湿気が多く、男は早死にする[4]とあり、四川の地方史を記した『華陽国志』にも江州は時たま瘴気が発生し、他州出身の官吏は多く死にます[5]という記述がある。

このため、もし例えば華北の国が江南に攻め入ろうとしても、国教での掠奪程度は成功しても、本格的な侵攻となると、兵士が疫病にかかり、江南の人々が手を下す前に華北軍が自滅するのが常であった[6]

しかし、このラインも大規模な気候変動に際しては大きく動く事があった。寒冷化するとこのラインは南下したし、温暖化するとこのラインは北上した。

図3:中国における象の北限の推移。『トラが語る中国史』より。寒冷化によって象の北限が徐々に南下していったのが判る。寒冷化すると、このラインが南下する訳だから、疫病が猖獗を極める地域も自然縮小し、免疫の弱い華北の人がここに来ても疫病にかかる事は少なくなった。また栽培されている作物も、北は寒さに強い麦などの畑作が主体であるが、南は寒さに弱い稲などが主体である。とすると、大規模な寒冷化が起こった時の経済的損失は北よりも南の方が圧倒的に大きい。そのため、もし寒冷化が起こった時に華北の軍勢や難民が江南に押し寄せても、疫病はなりを潜め、江南の経済も大打撃を受けていて、江南側はこの動きを阻止する事も出来ないのだから、当然江南は華北の軍勢や難民の流入を許す形となった。このような例の主たるものとしては、4世紀における西晋滅亡後の江南への華人の大量移住や6世紀における隋の南北朝統一などがあった。

気候が温暖化すると、以前は江南だけで猖獗していた疫病が、免疫のない住民の多い華北にも広がり、元来暑さに弱い麦類の収穫も減って、収穫も激減する訳である。こうなると、飢饉と疫病に悩まされた華北に、免疫がある上に温暖湿潤な気候を好む米を主食にする江南の人々がやってきても、何ら有効な抵抗は行われないのである。後述するように象が黄河流域に住むほど温暖な時期における南方系の殷王朝の繁栄、12世紀における明の中原統一や20世紀における国民党の北伐などがこれに相当するだろう。

同じ事は、長城を挟んで暮らし続けたモンゴル高原の遊牧民と中原の定住民にも言えた。寒冷化すると家畜が死んで窮地に陥った遊牧民は状況を打開しようと長城の南の華北に攻め入る訳だが、当の華北では寒冷化のために、稲よりは強いとは言え、家畜よりは寒さに弱い麦類が遊牧民の家畜より壊滅的な打撃を受け、同じく江南よりかは少ないとはいえ、遊牧民よりは免疫を持っていた疫病が南に退いてしまっているから、遊牧民は疫病にもかからず、華北の住民の激しい抵抗にも遭わずに中原にはいる事が出来るのである。中国史において遊牧民系の王朝が首都を経済の発達した南方に置かず、北京や平城など北方の長城近郊に起き続けたのも、本土に近いのもあるが、それよりも疫病を避けるためという方が大きかっただろう。このような例は紀元前12世紀における遊牧系の周王朝の殷王朝放伐や4世紀における五胡の中原侵入、10世紀における金の華北占領、11世紀におけるモンゴルの世界帝国成立、17世紀の清王朝成立などが当てはまる。

逆に気候が温暖化すると、遊牧系王朝は北に追いやられるか、崩壊して中原の漢民族と同化するかする。モンゴル系の元は明に追い払われてモンゴル高原に帰っていったし、清も国民党の北伐によって崩壊し、満州に残った数少ない女真族以外はほとんどが中原の漢民族に同化された。

図4:中国の人口と世界の平均気温の変動。なお、余談にはなるが、中国の個々の王朝交代についての陳達の興味深い見解をここに紹介しておこう。
曰く、新王朝が始まって、平和と秩序が維持されるに至ると出産が死亡を越える事によって人口は順調に増大し、文化も分業によって展開して長足に進出する。しかしやがて人口密度が高まり、農業技術の革新や改良の欠如と相まって大衆の生存競争が次第に激しくなっていく。にもかかわらず、人口はなおも増大を続けて、サイクルの頂点である飽和点にたっする。すると過剰人口の徴候である悪疫や飢饉が頻発して生活がだんだんと耐え難いものになり、革命や戦乱が勃発する。それは一時的に人高圧を和らげ、新王朝を成立させる。人口はなお減少を続け、遂にサイクルの底辺である最低レベルに達する。それが新しいサイクルの開始で、同じような局面が繰り返され、それぞれのサイクルは数百年の長さを持つが、それは主に王朝没落直前の人口圧の程度によって決まる[7]

陳達の見解はまことに興味深く、かつ参考に値する。過剰人口の徴候である悪疫や飢饉が頻発というところに気候変動が絡むと、それは見る見る内に壊滅的な様相を見せ、異民族の侵入や南北対立の終焉、もしくは南北の分裂などを引き起こしていくのである。

このように中国では、気候変動を通じて疫病や飢饉が起こり、ひいてはそれが政治的な大変動に繋がったのである。ここで見た事は中国に限った話ではない。中国ほどにはわかりやすくはないが、全世界で起きている事なのである。しばしばある地域で経済が発展していたら世界中でそうなったり、ある地域で国が分裂していたら世界中で分裂と滅亡が繰り広げられていたりするのはまさにこのためであるといえよう。


注釈・出典

  1. ^ デ・カストロ『飢餓社会の構造』
  2. ^ ダンドー『地球を襲う飢饉』
  3. ^ ウィリアム・マクニール『疫病と世界史』
  4. ^ 『史記』5.69
  5. ^ 『華陽国志』1.2
  6. ^ ウィリアム・マクニール『疫病と世界史』
  7. ^ 湯浅赳男『文明の人口史』


参考文献


1デ・カストロ大沢邦夫(訳)飢餓社会の構造みき書房1975
2ウィリアム・マクニール佐々木昭夫(訳)疫病と世界史中公文庫2007
3司馬遷小竹文夫, 小竹武夫(訳)史記筑摩学芸文庫1997
4ダンドー山本正三, 斎藤功(訳)地球を襲う飢饉大明堂1985
5湯浅赳男文明の人口史新評論1999
6陳舜臣中国の歴史講談社文庫1990