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535年の大噴火


1.破局の序章

534年閏12月丙午、西南方で雷鳴が二度、響いた。[1]

『南史』梁本紀第七には、高祖武帝治下の中大通年間の出来事として、このように記録されている。一見すると、単に雷が落ちただけとも解釈しうるが、このような記録は中国の史書を見る限り、かなり珍しい記述である。では、この雷鳴とは何だったのか? ――それは紛れもなく、火山噴火の轟音だったのである。まさかこの雷鳴が世界の運命を大きく変えていくとは、これを聞いた人々は想像さえしていなかったことだろう。

では、南朝の首都建康(現南京)から西南に目を転じてみよう。
建康西南といえば、マレー半島、スマトラ島、ジャワ島等の地域がそれに当たる。更に西南方向に進んでも見渡す限り大海原が広がるだけだから、『南史』の言う雷鳴は、恐らくこのあたりが発生地であるはずである。では、当時ここで何が起こっていたか? ――19世紀、棕櫚の葉の写本に書かれた古文献を基に、当時の王ラングガワシルタVの手で編纂されたインドネシアの年代記『古代諸王の書』をひもといてみよう。

地元の山(パトゥワラ山*1から桁外れの轟音が聞こえてきた。〔中略〕
あたりは真っ暗になり、雷が轟き、稲妻が走った。
〔中略〕
次いで、猛烈な強風が吹いてきて、それと共に滝のような雨が降ってきた。
大嵐が世界中を真っ暗にしてしまった。
〔中略〕
そしてパトゥワラ山から大洪水が押し寄せてきて、東方のカムラ山の方へ流れていった。
〔中略〕
水が引きかけた後を見てみると、ジャワ島は2つに割れ、こうしてスマトラ島が生まれた。
[2]

また、次のような記述も見られる。

世の中全体が大きく振動し、鳴り渡る轟音と共に豪雨が降って来た。暴風雨が何度も起こった。〔中略〕
しかしその豪雨も噴炎を消すことが出来ないどころか、事態は一層惨憺たる様相を呈した。
その音は恐ろしかった。結局山はぞっとするような唸りと共に2つに割れ、地中深く沈んだ。
〔中略〕
パトゥワラ山及びにカムラ山の東方、そしてラジャバサ山の西方にあった陸地は海面下に沈んだ。
〔中略〕
スンダ地方からラジャバサ山までの地域に住んでいた人は溺死し、その遺体は財産もろとも押し流された。
〔中略〕
水が引いた後、その山と周囲の陸地は海になり、今まで1つだった島が2つになった。
スマトラ島とジャワ島が出来たのはこういう次第だったのだ。
[3]

アトランティス滅亡にも似て、世界の終末をも思わせる何とも恐ろしい伝承である。しかしここである程度疑問が生じる方もおられるかも知れない。第一に、火山噴火の際の雷鳴が直線距離にして約4500kmも離れた建康まで聞こえるなぞあり得ることなのか? 第二に、ジャワ島は2つに割れ、こうしてスマトラ島が生まれたというのは、歴史時代のたった一度の噴火で起こりえたことなのだろうか? 

図1:デイヴィッド・キーズ『535年の大噴火』p374より

第一の問いについては、1883年のクラカトア火山噴火の際、約5600km離れたマダガスカルまでその噴火音が聞こえたこと[4]や、1815年のタンボラ火山噴火の音が3000km以上先まで届いたことからも、『南史』の記述は非常に信憑性が高いと言えよう。続いて第二の問いだが、確かに地質学者は従来、「スンダ海峡における陸地の陥没は地殻変動によって徐々に引き起こされたもの」という認識を共有していたが、火山学者アラン・グールゴウの最近の調査によると、「スンダ海峡は部分的ないし全面的に、火山カルデラの陥没によって生じた可能性がある」[5]とのことである。彼の調査によると、スンダ海峡には上図のようなカルデラが見受けられるという。これらのことから、この近辺での噴火についてはかなり信憑性があるといえよう。さらに、この時期の火山噴火の存在を裏付けるように、グリーンランド・GRIP地点の氷河や南極・バード氷河などの氷縞から硫酸を含んだ雪が降っていたことが確認されている[6]

こうして火山は噴火した。しかしこれは更なる悲劇へのほんの引き金であるに過ぎなかった。
というのもこの後、火山噴火に伴う水蒸気と火山灰が大気中を漂って日光を遮断することで寒冷化をもたらしたからである。最初豪雨が各地を襲ったが、その後は寒冷化による蒸発量の低下が原因で大旱魃が起こったのである。
これによって世界はどう変化したのか? 人類は生き延びることが出来たのか? 当時の様子を詳しく見ていこう。


2.草原の覇権

最初の豪雨の後、寒冷化により蒸発量が低下した世界各地には、破滅的な大旱魃が訪れた。その影響を真っ先に被ったのが、当時中央アジアで覇を唱えていた柔然(アヴァール人)である。中央アジアの草原におけるこの頃の気候は、年輪や氷縞によれば過去1900年間で最悪のものになり[1]、牧草が消滅したため、エネルギー効率の悪い馬たちは次々と死に、他のアルタイ語族の遊牧民と違って交易を軽視し、専ら馬を使った掠奪で生計を立てていた柔然は大打撃を受けた。その上彼等は主食を馬乳に依存していたから、続け様に飢饉も発生した。

当然、柔然は弱体化し、同じ危機に瀕しながらもより早くその打撃から回復したテュルク系民族の攻撃にさらされた。先ず548年、(テュルク系の)鉄勒が茹茹(柔然)を攻めようとしたので、(突厥の)土門は、配下を率いてそれを迎撃して破り、その5万余落を降伏させた[2]。しかし、危機はそれだけでは終わらない。今度は〔土門が〕その強勢を自負し、茹茹に求婚した。〔茹茹の〕首長阿那壞は大いに怒り、使者を罵って、「汝は元我が鉄工奴隷に過ぎぬ者、よくもそのようなことが言えたものだ」と言った[2]。しかしそのプライドは言うまでもなく仇となる。土門は柔然との関係を絶ち、当時柔然と対立していた中国北朝の西魏と結託したのである。万事準備が整い、ただでさえ弱体化していた柔然にとどめを刺すべく552年正月、土門は軍を動員して茹茹を攻め、懐荒〔鎮〕の北で大破した。阿那壞は自殺し、その子菴羅辰は〔北〕斉に亡命した。残った者は阿那壞の叔父登叔子を首長に立て[2]て逃れていった。

しかし突厥が中央アジアの覇権を握った後も、620年頃から630年頃にかけて再び連年の大雪に見舞われ、家畜が死んで大飢饉になり、628年には突厥では、この盛夏に霜が降ったし、5日間〔太陽は〕同じ位置から昇り、3日間〔月は〕同じ明るさで、野一面大気は赤色に[3]なるという異常事態にも襲われた。野一面大気は赤色になったというのは、前にも触れたダストボウル現象と見てもよかろう。この結果突厥も柔然ほどにではないにしても弱体化し、東突厥は唐に飲み込まれ、唐が史上空前の巨大版図を為す一因となる。

一方中央アジア西部では突厥の勢力伸長に伴い、テュルク系のオグズ族やハザール族、ブルガール族などが西へ逃れ、それぞれアラル海沿岸、黒海北岸、ドナウ川沿岸まで逃げのび、後世の歴史に大きな影響を与えた。


3.ペスト蔓延とビザンツ帝国の苦難

図2:ペスト蔓延。キーズ『535年の大噴火』より「ペストが広まる主因は豪雨で、その後旱魃が続くと最悪のパターンになる」[1]という。豪雨が続くと齧歯類の餌となる植物が増え、その後の旱魃で齧歯類の天敵が減り、ペスト菌を保有する齧歯類が爆発的に繁殖するからである。この状況は535年の大噴火後に、アフリカの東海岸で見事なまでに再現された。火山噴火に伴う豪雨の後の大旱魃により、ペストがラプタ近郊で発生し、鉄器時代に入っていたアフリカ東岸の住民は壊滅的な打撃を受け、一気に石器時代まで逆戻りしてしまったという[2]

被害はそれだけでは止まらなかった。535年の大噴火前夜ラプタが地中海世界との象牙貿易の一大拠点であったことが災いし、貿易船に乗って、象牙と共にペストが地中海世界に持ち込まれたのである。ペストは地中海と航海を結ぶ交易の要衝ペルシオンに上陸し、アレクサンドリア経由で541年にビザンツ帝国を強打した。

時にビザンツ帝国は果断なユスティニアヌス帝の許、ゲルマン民族を地中海沿岸から追い出そうと大軍勢を派遣している頃であった。しかし、ペストの襲来でそれどころではなくなった。海を隔てた所で暮らしているゲルマン人よりも、いかなる処方もなく、・・・予防することも出来ず、罹った後でも生命の助かる保証のない[3]ペストの方が遙かに重大であったことは想像に難くない。まもなく対ゲルマン戦争は頓挫する。

ペストだけではなく、火山噴火の後の天変地異も民衆に大きな不安を与えていた。火山灰が空に広がったため、日光は一年中、輝きを失って月のようだった。全く日蝕のようだった。太陽の発する光は全く明るくなく、いつもはなっている光のようではなく[4]なったのである。コンスタンティノープルの人々は太陽が以前のように輝くことは二度と無いのではないかと恐れた[5]ほどである。今までに見たことも、報告されたこともない[5]出来事であった。同じような現象は536年の晩夏にローマでも見られたらしく、太陽はいつもの光を失い、青っぽくなっている。我々は正午になっても自分の影が出来ないので驚愕している[6]という。終末論的な光景といえよう。

このように火山灰が日光を著しく遮断したため、今度は気候にも影響が出てきた。当時、春は穏やかでなく、夏も暑くなかった。作物が生育すべき数ヶ月の間は北風で冷え冷えとしていた。雨は降らず、農民はまた寒波に遭うのではと恐れていた[7]。メソポタミアも厳冬で、いつになく大雪が降り、鳥たちは死に絶えた[8]という。影響はすぐに農業にも現れる。気候変動の影響で、この頃は果実は実らず、葡萄酒は酸っぱ[9]くなっていた。

話は遡るが、突厥に撃ち破られた柔然(アヴァール人)はその後どうしたか? その答えはビザンツ帝国の年代記に残されている。曰く、彼等アヴァール人は隣接していたトルコ人の攻撃を受けて避難し、自分たちの故郷を立ち去ったのである。そして黒海の沿岸を通ってボスポロスに移動した。それからその地を出発してたくさんの人々の中を通過し、敵対する者たちとは戦って、イストロス(ドナウ)川のほとりまでやってきてその地を占領した。そしてユスティニアノスに使者を送ってその地の下賜を請うたのである[10]。ビザンツ帝国は彼等を厚遇した。しかし、一度窮状を脱するや、彼等は態度を翻し、同じく当時飢饉に見舞われていたドナウ川北岸のスラヴ人等と共に、当時ゲルマン系のゲピード人が住んでいたシルミオン(現ベオグラード)を制圧し、ビザンツ帝国に貢納金を要求した。つい先頃までゲルマン民族と熾烈を極めた戦いを展開していた上に、破滅的なペストにまで見舞われていたビザンツ帝国はやむなくこれを受け入れた。足許を見たアヴァール人はビザンツ帝国から巨額の貢納金を毎年のようにゆすり取り、従わぬようならビザンツ領内に侵入して掠奪の限りを尽くした。

582年、ユスティニアヌス大帝が死に、マウリキオス帝が後を継ぎ、あまりに法外な貢納金を突っぱねるや、彼等アヴァール・スラヴ連合軍は大挙してビザンツ領内に侵入し、テッサリア、ギリシア、かつてのエピロス、アッティカ、エウボイア島のすべてを手中に収めた。彼らはペロポネソスにも戦いをしかけてそこを征服し、高貴なヘラスの人々を殺したり追い出しながらその他に定住した。先住の人々のなかで、この殺人者たちの手から逃れるのに成功した人々は各地に散らばった[11]。この結果スラヴ人は以後永久にバルカンに居座[12]り、イリュリア・トラキア系の原住民やビザンツのギリシア人などと混血していく。後世バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになったことの一因は、この大侵攻に求め得よう。

貢納金が支払われ、アヴァール・スラヴ連合軍はビザンツ領内から去ったが、なおも緊張は続き、602年にはドナウ川沿岸の諸軍団に、ドナウ川北岸での冬営が命じられた。これを不満とした軍団兵達は叛乱を起こし、マウリキオス帝を殺し、百人隊長のバルダス・フォカスが即位した。これに激怒したのがササン朝のホスローU世である。彼は即位してすぐの頃起きたヴァフラーム・チョービンの叛乱に際し、マウリキオス帝の援助のおかげでこれを鎮圧できたため、マウリキオス帝治下のビザンツ帝国とは友好関係を保っていた[13]のだが、「マウリキオス帝暗殺される」の報を聞くや、ビザンツ帝国と国交を断絶。ユーフラテス川沿いにビザンツ帝国軍と激しい戦いが行われた。更にフォカス即位の5年後、カルタゴ総督のヘラクレイオスが叛乱を起こし、その別働隊がエジプトに迫った。フォカスは慌ててシリアの軍団をエジプトに派遣したが、これが災いして、均衡の崩れたユーフラテス戦線をササン朝の軍勢が突破し、瞬く間にシリアとエジプトが陥落し、ペルシア軍主力は小アジアを蹂躙した。

さて、簒奪者フォカスを討って即位したヘラクレイオスだが、玉座に座る間もなく、すぐさまアルメニアに親征に向かった。しかし、この虚を突いて、フォカスの叛乱の頃から侵入していたアヴァール人が総勢を挙げて首都コンスタンティノープルに迫った。ササン朝の軍勢も小アジアを横断し、コンスタンティノープルの城壁に攻撃をかけ始めた。今やアヴァール・スラヴ連合軍とササン朝は皇帝不在のコンスタンティノープル攻略のため、互いに同盟を締結していた。
この絶体絶命の窮地を救ったのがビザンツ帝国の優秀な海軍であった。遊牧民と内陸帝国の急拵えの貧弱な艦隊などがこれに太刀打ちできようはずもなく、コンスタンティノープル包囲軍は甚大な損害を被って駆逐された。一方、アルメニアに親征していたヘラクレイオス帝は、西突厥の圧迫を逃れて黒海北岸に逃れていたテュルク系のハザール人を味方に付け、ティグリス川を下って首都クテシフォンを包囲した。逃れようとしたホスローU世はビザンツの王女マリアとの間に生まれた王子の手にかかって死に、小アジアのペルシア軍も地理に明るいビザンツ軍の反攻にあって総崩れになり、程なく小アジアは開放された。これを見たアヴァール・スラヴ連合軍も浮き足立ってドナウ川北岸まで逃げ帰り、以後長らくビザンツ帝国の国境を侵さなかった。

ヘラクレイオス帝は見事にビザンツ帝国開闢以来の危機を乗り越えた。しかしこれが高く付いたことは疑いようもない。ビザンツ帝国はペストと戦争で、541年〜631年の90年間に実に計9000万ソリドゥスもの国富を喪失した[14]。ビザンツの年収は330万ノミスマ(ソリドゥスに同じ)[15]だったから、約27年分に相当する。もちろん一般支出とは別計算だから、何ともはや恐ろしい限りである。
一方、ササン朝の損失もこれに劣らなかった。具体的数値こそ判らぬとはいえ、ホスローU世は軍事費と豪奢のため巨額の富を費やし、国民を重税で押しつぶした。ティグリス川が寒冷化の影響で氾濫を繰り返し、豊饒な土地が泥沼と化していたのみならず、多くの成年男子は軍隊に徴発され、国内の労働力は枯渇した[16]


4.イスラム教誕生と拡大の謎

よし、見ておれ、今に大空がもくもく黒煙ふきだし、
人間共の頭上を覆う日が来よう。恐ろしい天罰とはこのこと。
[1]

パトゥワラ山大噴火の噴煙はアラビア半島上空でも観測された。噴火直後に世界各地を豪雨が襲ったことは前にも述べたが、アラビアには一天にわかにかき曇って暗雲垂れ込め、辺りは真の闇、雷鳴殷々と轟き、雷光閃々と輝く[2]という、ひときわひどい豪雨が降り注ぎ、543年頃、遂にマァリブ・ダムが修復のしようもないほどに決壊した。『コーラン』の一節によると、シェバ(サバア)人の背教の報復として、アッラーは大洪水をどっと浴びせかけ[3]、以前甘い実を実らせていた果樹園を苦い実しか生らず、後は檉柳の藪ばかり、それに役にも立たぬ灌木がちらほらという果樹園[3]に変えてしまった。

ダムを修理しようという動きが起こったのだが、折から東アフリカで発生したペストがここにも襲いかかり、人口減少でそれどころではなくなった。マァリブ・ダムは以後永久に放棄され、灌漑水が使えなくなったため農地が減少し、食糧生産は大幅に落ち込んだ。南アラビアに住んでいたガッサーン族などは北のヒーラに移住し、以後ビザンツ帝国と密接な関係を保った。彼等はマァリブ・ダム決壊の年を自国の紀元元年に設定したという[4]

アラビア人達はこの破局を終末論的な見方で捉えた。疫病が猛威を振るい、火山灰で太陽の光も薄れ、なによりダムの決壊で自国の経済が崩壊したのだから、ある意味当然のことといえよう。ムハンマドはこのような気運の広がった頃に生まれた。ムハンマドの少年時代には豪雨の代わりに大旱魃が訪れ、〔食べるものは〕何一つ残っていなかった[5]というし、疫病は相も変わらず猖獗を極め、ムハンマドの母をして「私はあのこのためにメッカの疫病を恐れます[6]」と言わせるほどだった。

イスラム教はこのような気運の下、生まれ、受容されていった。イスラムの伝承を集めた『ハーディス』という書物があるが、これを紐解くと、「旱魃が起こり、『家畜は死に、家族は飢えている』と誰かがムハンマドに雨乞いを頼む。ムハンマドが雨乞いをすると雨が降り始めたが、それは一週間ほど激しく降り続け、今度その依頼者は『これでは家は壊れ、家畜は溺れてしまいます』とムハンマドに苦情をつける。するとムハンマドは神に祈って、豪雨がメッカを直撃しないように取りはからった」という類の話[7]が所々に散見する。ムハンマド成人後もある日突然黒雲が湧き起こって大雨となり、棗椰子の枝で葺いた天井から雨が漏った[8]りするなど、不安定な気候は変わらなかったが、それは全て「神の御旨」で解決できた。メッカを支配するクライシュ族がイスラム教を受け入れなかった時、旱魃が起こって全ての物を枯らし、彼等(アラビア人)は動物の皮や死骸まで喰うようになった。そして誰もが空を見上げると、飢えの余り、煙のような物を見た[9]というようなことも、無論「アッラーに怒り」として解釈され、被イスラム・アラブ人の抵抗力を殺いでいった。猖獗を極めていたペストに関しては、聖戦での戦死と並んでペストで死ぬことは全てのムスリムにとって殉教である[10]とされ、解決された。この世の終末が来たと信じていたアラブ人にとっては「儚い現世での生」より「来世での永遠の報い」の方が遙かに重要事となった。もはや彼等には死を恐れる心など残っていなかった。

戦いによって疲弊の極みに達し、社会的、宗教的争いに蝕まれた古代世界は統一し、宗教的な情熱を以て決起した勢力に抵抗するにはあまりに無力であった[11]と古代イラン史の権威ギルシュマンは語る。全く以てその通りだった。先に述べたようにビザンツ帝国とササン朝は資金不足と軍の消耗のため、組織だった迎撃体制が取れず、ササン朝ペルシアは名称ロスタムの奮戦も空しくニハーヴァンドで完膚無きまでに叩かれ、ビザンツ帝国救国の英雄ヘラクレイオスも「さらば、おおシリアよ。敵にとってこれは何と立派な国であることよ[12]という悲痛な言葉を残して、シリアとエジプトを放棄し、失意の内にコンスタンティノープルで没した。長年差別されてきたユダヤ人に至ってはむしろイスラム教徒を歓迎しさえした。1300年の後にそのイスラム教徒とパレスティナを巡って血みどろの弘法を続けることになるとは夢にも思わず・・・。


5.西欧とキリスト教

当時西欧ではゲルマン民族の大移動が一段落し、新たな勢力均衡が定着しつつあった。人々は再び自分たちの暮らしを立て直そうとし始めていた。そんな中535年、既に何度も述べたことだが、かの大噴火が起こった。ブリテン島では536年のトゥイード川の洪水頻発にはじまり、545年には厳冬になり、550年には鶏卵ほどもある巨大な霰がスコットランドに降り注ぎ、555年には全島への激しい雷雨など、535年〜555年にかけて、寒冷化が原因と見られる災害が立て続けに起こった[1]。この天変地異の激しさは民間伝承に残るほどに人々の脳裏に焼き付けられた。無名の吟遊詩人は当時のことについてこう語る。一連の雷鳴が轟き、雷鳴の後に豪雨が降ってきた。雷鳴も豪雨も今までに経験したことが無いほどの物だった。・・・大雨のために戸外にいた人間も動物も皆死んでしまった。・・・雨が上がると空が明るくなった。一同が木の梢を見上げると、そこには1枚の葉も残ってはいなかった[2]
大陸本土にもこの影響は及び、547年には流れはかちかちに凍り付き、地面のように渡ることが出来[3]るほどの厳冬に見舞われ、降雪が厳しく、鳥も寒さと飢えに衰弱し、罠なしで素手で捉えられた[3]という。トゥールのグレゴリウスによると570年〜591年にかけて、フランク王国は連年のように飢饉や洪水、冷害に見舞われたという。

ところで、当時ペストがビザンツ帝国にもたらされたことについては既に述べた。ビザンツ帝国はこれによって対ゲルマン戦争を中止せざるを得なくなり、ビザンツ軍は次々とゲルマン人の勢力圏から撤退していった。ゲルマン人達は敵の撤退に大喜びしたが、やがてもっと大きな敵が現れた。彼等は華々しい隊列を組むことや戦闘ラッパを吹き鳴らすこともしないで西欧に忍び込んだ。これまでビザンツ帝国を苦しめていたペストである。フランク王国がその洗礼を受け、576年にそれが最高潮に達した。腫瘍と膿胞を伴う様々な悪性の症状が多くの人々の生命を奪った[4]のだ。間もなくペストは大陸と盛んな交易活動を展開していたブリトン人の商船に忍び込んで新天地を見いだし、恐ろしい疫病が蔓延して、ブリタニアとアイルランドの島々が破壊されて荒廃し[5]た。

図3:ブリテン島の攻防。キーズ『535年の大噴火』よりペスト蔓延前夜のブリテン島では、島中央部の大森林を境に、島の西半を土着のケルト系ブリトン人、東半を侵入してきたゲルマン系のアングロ・サクソン人が支配していた。この2民族はお互いに徹底的に軽蔑しあっていたので、いわば「無視」しあっていた。時折戦争はしたが文化的交流は皆無だったようだ。差別的に聞こえるかも知れないが、実際問題として野蛮かつ未開で、ひたすら自分たちの国の中に立てこもっていた彼等アングロ・サクソン人は皮肉なことに交易に全く関心を示さなかったため、ペストの害を余り被らずに住んでいた。一方先進的なブリトン人は大陸との交易の結果ペストの被害をもろに受けた。ブリトン人の精神的支柱であった伝説の人物アーサー王がカムランの戦いでモルドレッドと相打ちになったと伝えられるまさにその年、疫病(ペスト)がブリテン島とアイルランド島を席巻した[6]のだ。次いで547年にはグウィネズ王国の王メルグウィンが疫病(ペスト)にかかって死んだ[7]。こうしてアーサー王の死後、折からのペストの猖獗もあって、ブリトン人は見る見るうちに弱体化していった。やがてこれは未開のアングロ・サクソン人も知る所となって、彼等は大挙して島の中央の大森林を突破し、ブリトン人の土地に雪崩れ込んだ。精神的支柱のアーサー王を失って意気消沈し、疫病にも冒されていたブリトン人達はあっという間に追い散らされ、かろうじてウェールズ、コンウォール、スコットランドを保ち得たのみだった。国を追われたブリトン人達の内のある者は大陸に活路を見いだそうと、ブルターニュ半島に逃れていった。こうしてアングロ・サクソン人、すなわち現在のイギリス人の先祖はブリテン島を制覇した。後世の「大英帝国」の小さな、しかし大きな意味を持った一歩だったといえよう。英語に苦しむ学生諸君、諸君をこのような状況に陥れたのは何とイギリスには縁もゆかりもない、インドネシアにある火山だったのだ。このようなことがなければ、英語は一途上国の公用語に過ぎなかったのだ。思えば奇妙な巡り合わせといえよう。

一方、アイルランドでは536年と539年の不作[8]の後、恐らく550年頃ペストが侵入し、人口を激減させ、食糧不足に輪をかけた。このため、510年〜555年にかけての45年間に11回しかなかった戦闘が、556年〜565年の10年間に少なくとも8回以上起こるようになった。実に3.3倍の多発ぶりである[9]。治安の悪化に伴い、農民達は農地に塀を巡らせ、自衛措置を執るようになっていった。しかし治安維持にはある程度役だった塀もペストの前には無力であった。人々は次々と死んでいった。貴族階級は聖パトリックの布教のため、キリスト教に改宗していたが、依然かつてのドルイド教を信奉する民衆達はドルイドの許に殺到した。しかしドルイドたちもこの未知の疫病の前では無力であった。庶民はドルイド教に幻滅し、より大いなる救済を求めてキリスト教に改宗する者が後を絶たなかった。アイルランドが完全にキリスト教化されたのはこの頃であった。


6.中国統一

中国は前にも触れた「五胡」の侵入以来、ずっと分裂状態が続き、534年の段階では、地理の授業でもお馴染みの秦嶺・淮河ラインを境に、北の魏、南の梁に分かれて抗争していた。この抗争も膠着状態になり、ある意味で微妙な均衡が成立していたのだが、ここにも火山噴火の余波が舞い降りた。先ずは『南史』から見ていこう。

534年閏12月丙午、西南方で雷鳴が二度、響いた。[1]

図4:535年前後の中国周辺。これは先にも引用した火山噴火への言及だが、恐らく梁の人々はこのようなことはすぐ忘れてしまっただろう。不可思議なことと言ってもやはり、庶民には何の関係もない・・・筈だった。しかしそれから異常なことが次々と起こった。翌535年の冬十月、雪のような黄塵が降った[1]。これが火山灰だったか気候の大異変に起因する季節はずれの砂嵐だったかは今となっては確かめる術もない。この黄塵は翌536年11月[2]、537年2月1日[3]、550年1月丁巳の日[4]にも観測された。

何かがおかしい。梁の民もそう思い始めたことだろう。しかし時既に遅し、大異変の歯車は回り始めていた。537年の夏は異常な冷夏に見舞われ、6月、青州の胊山で霜害が発生し[5]、さらに秋7月、青州で雪が降り、穀物収穫に被害を及ぼした[6]。青州といえば、現在の山東半島の北緯37°の場点にあり、日本のいわき市、北米のカリフォルニア、中東のシリアなどと同緯度に当たる。茨城県で8月に雪が降るようなものである。

当然のようにこの後538年飢饉が発生し[7]、政府の当局では八月甲辰、南兗州など十二州に詔を下し、飢饉が発生した地域では、租税を滞納している者に特赦を与え、今年の三調の徴収を禁止[8]するほどの対応をとらなくてはならなかった。異常気象は続き、皇帝は541年11月、「『天の道を用いて、地の利を分かつ』とは古代の聖人の訓辞である。没収された耕作地や桑畑・住居について、皇室領となった土地を除いて、全て貧民に分け与えよう。彼らの労働力を調査し、耕作地を授けることとせよ。聞くところによると、近頃では有力者や富豪が多くの公田を占有し、高額の小作料を徴収して、貧民に与えるなどと、今日の行政に甚だしい損害を与えている。今より一切、公田を有力者に貸し与えることを禁ずる。すでに貸し与えられた分については特別に追及しないこととする。富豪が貧民に種籾を与え、ともに田地を経営するのであれば、この禁令の例外とする[9]」という詔を発するに至る。

異常気象に伴い、今度は社会不安までが巻き起こる。ベトナムでは543年1月、交州の李賁が刺史蕭諮を攻撃し[10]、首都近郊では大同八年(544年)春正月、安成郡の劉敬躬が邪法を身に付けて反乱を起こし[11]、呼応する賊徒は数万人に至り、進軍して新淦・柴桑に迫った[12]等、各地で叛乱が勃発した。

これらの乱は幸いにも鎮圧されるが、異常気象は止まることを知らない。545年9月に地震が起こった後、冬11月、大雪が降り、平地の積雪量は三尺[13]に及び、548年12月戊申、西北の空で天が裂けた。火のような閃光が走った。[14]これが何を示すのかは判らない。もしかすると550年に降った黄塵の原因となる別な火山噴火かも知れない。気候変動の上に地震までが重なり、飢餓が蔓延した。ついには549年7月、九江にわたって大飢饉が起き、人を食う者が現れ、死者は145人に及び[15]、550年には春から夏まで大旱になり、人々は人間を食った。首都近郊はとくにそれが甚しかった[16]という。南朝梁の経済は完全に崩壊し、本来なら簡単に鎮圧できたはずの侯景の叛乱であえなく崩壊して、陳王朝に交代する。

一方北の魏でも『北史』によると異常気象が始まり、535年5月辛未、旱の故に勅令が下された。曰く「京邑及びに全州以下郡におよぶまで死体は埋葬すべし」[17]。しかし旱魃は更に続き、同年夏五月,大変な旱が起こった。(当局は長安の)市門や(宮殿の)門、そして官庁の門の所で水を配ることにし[18]、さらに翌8月、並、肆、涿、建の四州で霰が降り、大飢饉が発生した[19]ことから冬十一月戊申,河北流(黄河北辺)を彷徨いている饑人の様子を調査するため、巡檢使を派遣した[20]。旱からうってかわって538年夏、今度は山東地方で洪水が発生し、蛙は樹上で鳴いていた[21]ともはや想像さえつかないような異変が続いた。

以後北朝は魏が滅びて北斉、北周が立ち、後に隋に統一されるが、飢饉の被害を受けつつも、中央集権体制と、本来モンゴル系だったため農業一辺倒にならずに済んだことが幸いして南朝程の混乱を生じずにこの危機を乗り切ることが出来た。この危機を乗り切り、隋が政局を安定させ、南方に目を転じると、梁に代わった南朝の陳は崩壊した経済を立て直せずに、大混乱に見舞われていた。長い分裂も終わり方は実にあっけないものだった。大挙して攻め込んだ隋は抵抗らしい抵抗も受けずに陳を征服し、ここに285年ぶりに中国を統一することが出来たのであった。


7.朝鮮半島の統一

同じ頃、朝鮮半島も高句麗、百済、新羅の3ヶ国に別れ、長らく分裂抗争を繰り返していた。ここでも、12世紀に編纂された歴史書『三国史記』によると、535年を境に異常気象が頻発するようになる。『三国史記』はなぜか百済本紀だけ記述がかなり散漫なので、高句麗と新羅を中心に見ていこう。

535年のこと異変は高句麗で最初に起こった。夏5月、国の南部に大水が出、民家が流失したり、水没したりし、200余人が死亡した。冬10月、〔王都に〕地震があり、疫病が大流行した[1]というのだ。これだけなら偶然そうなる年もある、高句麗の当局はそう考えていただろう。しかし現実はそう甘くなかった。翌年春夏、ひどい旱魃になったので、使者を派遣し、飢えた民を慰め恵んだ。秋8月、イナゴ〔が発生した〕[2]。要するに旱魃に見舞われた上、残った穀物もイナゴにあらかた食い尽くされたというのだ。事態は更にその翌年になっても一向に好転する気配が無く、537年春3月、国民が飢え〔苦しんでいるので〕、王は〔自ら〕慰め視察し、〔穀物を〕与え救う[3]という措置を執らざるを得なくなった。

540年には異常な現象が半島各地で観測された。本来初春に咲くはずの桃や李が冬10月に咲いた[4]というのだ。しかし新羅では暖冬の割りに春には雪が1尺も積もった[5]というよく分からない天候に支配される。新羅ではこの後異常気象の記述で目立つものは575年まで特にないのだが、高句麗では毎年のように異常気象が起こる。
542年春3月〔王都に〕大風が吹き、樹木を抜き倒し、瓦を吹き飛ばした。夏4月、〔王都に〕雹が降った[6]。雹は545年にも降っているが、同じ頃西ヨーロッパでも雹が観測されていることを考えれば、これは局地的なものとも言えない。555年の12月晦、日蝕があり、氷が張らず[7]、561年6月には大水が[8]、563年夏にはひどい旱魃が[9]各々高句麗を見舞い、王は日常の食膳を減らし、〔雨乞いのため〕山河〔の神々〕に祈りを捧げた[10]。既に200年も前に仏教を受容しているのに、山河に祈るとはよほど飢饉がひどかったのだろうか。

570年代から朝鮮半島全域に再び異常気象の記述が現れる。571年8月、高句麗にはイナゴが発生し、旱魃になり[11]、新羅でも575年春から夏にかけて旱が続いた[12]。581年7月には高句麗で霜が降り、雹が降って穀物を枯らし[13]て飢饉になり、新羅では585年春3月旱が続くので、王は・・・日常の食膳を減らし[14]さえする程になり、589年には国内西部の大水で人家3万360戸が流されたり浸水したりし[15]たかと思えば、今度は600年から凡そ10年間程半島南部を断続的に旱魃が襲って、百済王自らが漆岳に行幸して雨乞いをしたり、夏4月に晩霜が降りたりした。次なる旱魃のピークは647年〜660年頃に訪れ、668年高句麗討伐の際、唐の将軍賈言忠は虜(高句麗)では凶作が続き[16]、治安が悪化していたことに触れている。

新羅も異常気象には苦しんだが、最後の異常気象ピークは627年〜632年の間で、更に受容した仏教が国家主義とうまく結合したため、この破局を最小限の被害で乗り切り、余勢を持って半島を統一できたのだと言えよう。


8.日本と仏教

安閑天皇は535年2月1日、このところ毎年穀物が稔って、辺境に憂いもない。万民は生業に安んじ飢餓もない[1]と、当時の状況がすこぶる良好であったことをその詔の中で明らかにしている。

しかし、中国・朝鮮で事態が悪化していた頃、島国日本もその余波を免れることは出来よう筈がある訳はなかった。ここにも火山噴火の余波の魔手が忍び寄り、宣化天皇即位直後の翌536年5月1日にはもはや状況は一変していた。1年前には飢餓もない状態に落ち着いていた日本で、食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒すことは出来ない。真珠が千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか[2]という詔が下される有様となったのである。飢饉が起こっていなければ黄金が万貫あっても、飢えを癒すことは出来ないということはあり得ない。そしてその飢えは緊急かつ深刻なものであった。これまで外交時に出来るだけ他国の使者を厚遇しようとしていた政府当局は、今まで国外からの賓客を持て成すために屯倉に備蓄されてきた籾種を民衆に分かち与えたのである。

続く欽明天皇の御代にも天変地異は続き、『日本書紀』によると国々に大水が出て、飢える者多く、人が人を喰うこともあった[3]という。また『風土記』によると天の下の国を挙げて風が吹き雨が降って、人民は嘆き憂えた[4]という。余談にはなるが、この時に神の祟りを鎮めるために4月の吉日に賀茂で乗馬が行われるようになったと、『山城国風土記』の逸文は伝えている。

一方、この頃には中国・朝鮮での天変地異や戦乱から逃れるべく、540年8月までには、2月に帰化した百済人の己知部を筆頭に7053戸もの秦人や漢人が日本に亡命してきた[5]。仏教はこの時本格的に日本にもたらされたのだが、彼等は仏教の他に疫病を持ってきた。渡来人達は蘇我氏と結びつき、蘇我氏の勢力拡大に協力した。当然その過程で蘇我氏でも仏教が主流となり、天変地異の続くこの国を仏教導入によって救おうという動きも現れ始めた。

しかし当然これに反対する動きもあった。軍事・司法権を握る物部氏と祭祀権を握る中臣氏である。国の大事だからこそ今までの神々に信頼を寄せることで乗り切ろうというのだ。とりあえず当時の敏達天皇は蘇我稲目に預けて、試しに礼拝[6]させることにした。しかし蘇我馬子の代になると、この時疫病が起こって、人民の死ぬものが多かった[7]。物部守屋は疫病の原因は欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えそうなのは偏に蘇我氏が仏法を広めたことによる[8]日本古来の神々の怒りのためであるという。そしてある意味ではこれは事実だった。疫病は仏教と共に渡来人が持ち込んだものだったからである。

廃仏後にも疫病は続く。今度は瘡で死ぬ者が国に満ちた。その瘡を病む者は「体が焼かれ、うち砕かれるように苦しい」と泣き叫びながら死んでいった[9]という。大陸で流行した疫病を、逃れてきた渡来人がもたらしたというのが真相であろう。今で言う所の天然痘だと思われる。

この後、蘇我氏と物部氏は正面から激突し、結果物部氏が壊滅的な打撃を被って歴史の表舞台から退場した。ここからは日本は急激に国際化していく。中国風の文化・制度が採用され、仏教も国教となった。600年頃には初めて中国に使者が送られる。以後それは894年に菅原道真の進言で停止されるまで、遣隋使・遣唐使として200年以上続けられた。ここに古代の日本は姿を消し、この災厄が一息つくと、中世に向かって邁進し始めることとなった。

その後一旦は天変地異も収束がついたかに見えたのだが、626年頃から再び異常気象がピークを迎え、1月に桃や李の花が咲いた[10]かと思えば、一転して寒くなり、3月に霜が降り[11]、6月に雪が降った[12]。この極端な冷夏の上に、この年は3月から7月まで長雨が降り、天下は大いに飢えた[13]。翌年には4月の10日と11日に続けて桃や李の実程もある雹が降った[14]。そして春から夏まで旱魃が続いた[15]。このため推古天皇は535年の安閑天皇の詔とは対照的に、この頃五穀が実らず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬ればよい[16]という異例の遺言を残して世を去った。天皇らしからぬ最期であった。


9.グプタ朝滅ぶ


10.テオティワカン崩壊

図:テオティワカンこの当時「新世界」には、なんと各々60〜100人の人間を収容する集合住宅が存在していた。ナワトル語で「神々の都市」を意味するテオティワカンである。人口も30万〜50万[1]という飛び抜けたものを持ち、同時代のコンスタンティノープル、スラやマリウスの生きた頃のローマの人口と肩を並べる程であった。600年頃の「新世界」の総人口が700万人[2]というから、当時4100万km2に及ぶ南北アメリカに住んでいた人の実に14人に1人が20km2しかないテオティワカンの町に集まっていた事になる。

このような事からも判るように、このテオティワカンには中米の宗教・政治・経済・人口の全てが一極集中していた。

そんなテオティワカンにも火山噴火の余波がやってきた。535年と536年に激しい気候変動が起き、木の成長速度が元に戻ったのは漸く550年代末になってからの事[3]だった。この後メキシコでは1000年ぶりという過酷さを誇る、史上類を見ない大旱魃に見舞われた[4]。このため農産物は不作に見舞われ、住民は慢性的な栄養不足に陥り、免疫が低下したため、2万5000人/km2という異常なまでの人口密度のテオティワカン市内でいつも流行っていた伝染病が猛威を振るい、特に都市周辺からの免疫を持たない移民の間に猖獗を極めた。当然25歳未満の若い世代の死亡率は8.3%から27%と、3倍にまで[5]膨れあがり、労働者人口の68.3%までが25歳までに死亡した。(平常時には38.5%だった)

図:トラロック神像。テオティワカン当局は打ち続く旱魃をどうにかしようと雨の神トラロックの御機嫌を宥めるために、メソアメリカ最大とも言われるトラロック神像の制作に着手した。しかし、それでも一向に雨は降らず、テオティワカンでは外部との交易もストップし、住民は既存の宗教や政治に次第に幻滅していった。国は疲弊し、例年のように建てられていた石碑が534年〜613年までの間全く建てられなくなったという[6]

とうとう怒り狂った人民はテオティワカン内部で異常なまでに暴力的な大反乱を起こし、テオティワカンの象徴とも言えるケツァルコアトル大神殿を破壊した。神官たちは虐殺され、貴族の家も炎上した。現代に生きる我々にはピンと来ないかも知れないが、これは想像を絶する大事件だった。現代の感覚にてらせば、ちょうど、西欧のキリスト教徒がバチカンのサン・ピエトロ大聖堂を襲って炎上させたり、イスラム教徒がメッカのカアバ神殿に火を点けたりするようなものである。

こうしてテオティワカンは自滅した。この後、今までテオティワカンの軛に服していたマヤの諸都市が独立して繁栄を享受する。中でも大きな勢力を誇ったティカルとカラクルムは例年のように戦争を続けた。それでもマヤ諸都市の人口は増え続け、次の9世紀の破局の時には為す術もなく・・・。

同じ頃、北米にも変化が起きていた。飢饉に続く食糧不足のため、食糧の奪い合いが激化し、アナサジ・インディアンを筆頭に武器の使用が急増した。ミシシッピ川流域でも投げ槍に変わって弓が使われるようになり、600年頃チャコ盆地に定住したアナサジ・インディアンは以後急激に発展したという[7]


11.アンデス諸国の盛衰

異変は南米にも訪れた。火山噴火の煽りを受けて、535年〜537年にかけて気温が急降下し、540年は異常な低温になり、チリのレンカでは過去1600年で最寒をマークするに至った[1]。続いて、563年〜594年にかけて未曾有の大旱魃が起こり、ペルーでは30年近く砂嵐が吹き荒れたという[2]

図:ナスカの地上絵。読者諸賢の内には左の写真に見覚えのある方もおられよう。ナスカの地上絵である。大旱魃は政治・宗教・経済などあらゆる面で水に依存していたナスカ渓谷を30年に亘って席巻した。当然のように凶作が起こり、飢饉が起こった。その2, 3年後にはナスカ文化の祭祀が危殆に瀕するに至る。今やナスカ渓谷全域に絶望と不安が蔓延していた。ナスカ土器の絵にもこの頃を境に鬼神や戦いの描写が増えていった。ここでも食糧の争奪戦が始まっていたのである。

一方で彼等は食糧不足に真っ正面から対峙することもしていた。550年〜650年にかけて造られるようになったプキオという地下水路[3]がそれである。彼等はこの水路によって灌漑に成功し、この危機を乗り越えることが出来た。しかしその苦労は並大抵ではなかった。当時の伝承は端的にそれを示している。プキオは大旱魃の時に造られた。住民の苦しみようを見て神々が流した涙を集めるのは大変な作業だった[4]

図:この頃の南米大陸。新大陸では珍しくポルノ土器を造っていたペルー北部のモチェ[5]でも事態は急を告げていた。近年よく耳にするエルニーニョ現象が断続的に破壊的規模で起こっていたのである。特に556年頃のエルニーニョはすさまじく、暴風雨が町を全て流し去り、灌漑設備を徹底的に破壊し、続いて起こった洪水がこれに追い打ちをかけた。洪水のもたらす砂に埋もれて滅んだ町もある[6]というから、その凄まじさは想像もつかない。

恐らく、暴風雨に町を毀された人々は神々に雨を止ませるよう祈ったことだろう。願いは叶えられた。しかし、どうも神々はそれを過大解釈していたようだ。562年〜594年にかけて30年以上にも及ぶ激しい旱魃がアンデス一帯を襲った[7]のだ。暴風雨の後の大旱魃で、必然的にモチェ一帯は飢饉に陥り、更に水不足がこれに加わった。旱魃は度を超えて激しく、地下水さえもが枯渇し、あちこちで土砂崩れさえもが起こるようになった[8]。遂に、破壊的なエルニーニョを生き延びたモチェの都市も完全にその機能を失い、人々はまだ水の得やすい上流のガリンド等へと移住していった[9]。人々は移住してからも雨乞いをし続けたようで、移住先の遺跡では雨乞いの時に用いられるウミギク貝の出土が急増した[10]という。

最後に、以前栄華を極めていた国々がこのように没落していく中で、この破局をうまく凌ぎ、後の発展の礎とした国もあった。その2例を紹介しよう。ワリとティワナクである。

ワリは大旱魃の中、大規模な段々畑を造って食糧生産高と人口を飛躍的に向上させ、アンデスを縦横に走る道路網や、縄の結び目の数と位置によって数字を表記したり、色分けして対象の種類を示したりするキープを発明した。これらはいずれも、後のインカ帝国の発展に寄与した。まさに「必要は発明の母」と言える好例だろう。

ティワナクもこの危機をうまく生き延びた。海岸部が破滅的な旱魃のため大打撃を受けている間、ティワナクが発展し得たのは偏に新鮮な水源地ティティカカ湖のおかげと言える。無論ティワナクにも旱魃は訪れ、雨乞いのため巨大建造物が建てられた[11]。しかし雨が降らなくても淡水をコンスタントに供給してくれるこの湖のおかげで、ティワナクは旱魃に喘ぐ他の都市を次々と併合し、領地を広げていったのである。いささか火事場泥棒の観もあるが・・・。


12.注釈と出典

1.破局の序章

  1. ^ 『南史』1.7.3.6
  2. ^ キーズ『535年の大噴火』
  3. ^ キーズ『535年の大噴火』
  4. ^
  5. ^ 火山学者アラン・グールゴウの調べ
  6. ^ キーズ『535年の大噴火』

2.草原の覇権

  1. ^ エカチェリンブルグ大学によるハタンガでの年輪調査による。
  2. ^ 周書2.42.1
  3. ^ 新唐書4.140

3.ペスト蔓延とビザンツ帝国の苦難

  1. ^ 全米病気管理センター伝染病部調べ
  2. ^ キーズ『535年の大噴火』
  3. ^ プロコピオス『戦史』2.22
  4. ^ プロコピオス『戦史』2.14
  5. ^ エフェソスのヨハネス『教会史』2巻断片
  6. ^ カッシオドロス ?
  7. ^ ザカリアス・スコラティコス ?
  8. ^ ザカリアス・スコラティコス ?
  9. ^ エフェソスのヨハネス『教会史』2巻断片
  10. ^モネンバシア年代記』4
  11. ^モネンバシア年代記』12
  12. ^ ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』
  13. ^ ロマン・ギルシュマン『イランの古代文化』
  14. ^ キーズ『535年の大噴火』
  15. ^ 井上浩一『世界の歴史』11
  16. ^ ロマン・ギルシュマン『イランの古代文化』

4.イスラム教誕生と拡大の謎

  1. ^ 『コーラン』44.10 以後コーランのナンバリングはカイロ版に従う。
  2. ^ 『コーラン』2.19
  3. ^ 『コーラン』34.14〜15
  4. ^ フィリップ・ヒッティ『アラブの歴史』
  5. ^ イブン・イスハーク『マホメット伝』
  6. ^ イブン・イスハーク『マホメット伝』
  7. ^ 『ハーディス』金曜日の書35.1, 雨乞いの祈り24.1他
  8. ^ 『ハーディス』アザーン41.2
  9. ^ 『ハーディス』雨乞いの祈り2.2 コーラン解釈の書2.1にも同様の話が伝えられている。
  10. ^ 『ハーディス』聖戦30.2
  11. ^ ロマン・ギルシュマン『イランの古代文化』
  12. ^ バラーズリー『諸国征服史』

5.西欧とキリスト教

  1. ^ 『1450年までの気象年代記』の調査結果。キーズ『535年の大噴火』より
  2. ^ 『マビノギオン』ウリエンの子オウァインの物語
  3. ^ トゥールのグレゴリウス『フランク史』3.37
  4. ^ トゥールのグレゴリウス『フランク史』6.14
  5. ^ ベーダ『英国民教会史』3.11
  6. ^ウェールズ年代記』537年
  7. ^ウェールズ年代記』547年
  8. ^アルスター年代記』U536.3, U539.1
  9. ^アルスター年代記

6.中国統一

  1. ^ 『南史』1.7.4.1
  2. ^ 『南史』1.7.4.2
  3. ^ 『南史』1.7.4.3
  4. ^ 『南史』1.7.6.4
  5. ^ 『南史』1.7.4.3
  6. ^ 『南史』1.7.4.3
  7. ^ 『南史』1.7.4.3
  8. ^ 『南史』1.7.4.4
  9. ^ 『南史』1.7.4.7
  10. ^ 『南史』1.7.4.7
  11. ^ 『南史』1.7.4.8
  12. ^ 『南史』1.7.4.8
  13. ^ 『南史』1.7.4.10
  14. ^ 『南史』1.7.6.2
  15. ^ 『南史』1.8.0.3
  16. ^ 『南史』1.8.1.1
  17. ^ 『北史』1.5.4.1.2
  18. ^ 『北史』1.5.4.1.2
  19. ^ 『北史』1.5.4.1.3
  20. ^ 『北史』1.5.4.1.3
  21. ^ 『北史』1.5.4.2.1

7.朝鮮半島の統一

  1. ^ 『三国史記』19.3.5
  2. ^ 『三国史記』19.3.6
  3. ^ 『三国史記』19.3.7
  4. ^ 『三国史記』19.3.10
  5. ^ 『三国史記』4.3.1
  6. ^ 『三国史記』19.3.12
  7. ^ 『三国史記』19.4.10
  8. ^ 『三国史記』19.5.3
  9. ^ 『三国史記』19.5.5
  10. ^ 『三国史記』19.5.5
  11. ^ 『三国史記』19.5.13
  12. ^ 『三国史記』4.3.37
  13. ^ 『三国史記』19.5.23
  14. ^ 『三国史記』4.5.7
  15. ^ 『三国史記』4.5.11
  16. ^ 『三国史記』22.1.27

8.日本と仏教

  1. ^ 『日本書紀』18.1.2.1
  2. ^ 『日本書紀』18.2.1.5
  3. ^ 『日本書紀』19.28
  4. ^ 『山城国風土記』逸文13
  5. ^ 『日本書紀』19.1.2
  6. ^ 『日本書紀』19.12.10
  7. ^ 『日本書紀』20.14.2
  8. ^ 『日本書紀』20.14.3
  9. ^ 『日本書紀』20.14.3
  10. ^ 『日本書紀』22.34.1
  11. ^ 『日本書紀』22.34.3
  12. ^ 『日本書紀』22.34.6
  13. ^ 『日本書紀』22.34.6
  14. ^ 『日本書紀』22.36.4
  15. ^ 『日本書紀』22.36.4
  16. ^ 『日本書紀』22.36.9

10.テオティワカン崩壊

  1. ^ 関雄二, 青山和夫『アメリカ大陸古代文明辞典』
  2. ^ コーリン・クラークによる推計。湯浅赳男『文明の人口史』より
  3. ^ カリフォルニアのヒッコリー松やバルフォア松の年輪の調査結果。
  4. ^ テオティワカン近郊のプンタ・ラグナ湖の18O濃度やチチャンカナブ湖の石膏沈殿度合いなどの調査結果。
  5. ^ キーズ『535年の大噴火』
  6. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』
  7. ^ ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』

11.アンデス諸国の盛衰

  1. ^ チリのレンカの針葉樹の年輪データより。
  2. ^ ペルーのケルカヤ氷河の氷縞の調査結果。
  3. ^ 関雄二, 青山和夫『アメリカ大陸古代文明辞典』
  4. ^ キーズ『535年の大噴火』
  5. ^ ミロスラフ・スティングル『古代インカ文明の謎』
  6. ^ キーズ『535年の大噴火』
  7. ^ 関雄二, 青山和夫『アメリカ大陸古代文明辞典』
  8. ^ キーズ『535年の大噴火』
  9. ^ 関雄二, 青山和夫『アメリカ大陸古代文明辞典』
  10. ^ 関雄二, 青山和夫『アメリカ大陸古代文明辞典』
  11. ^ キーズ『535年の大噴火』

13.参考文献


1デイヴィッド・キーズ畔上司(訳)西暦535年の大噴火文藝春秋2000
2
3内田吟風, 田村実造(他編訳)騎馬民族史平凡社東洋文庫1971
4ゲオルグ・オストロゴルスキー和田廣(訳)ビザンツ帝国史恒文社2001
5和田廣史料が語るビザンツ世界山川出版2006
6小林功のホームページhttp://homepage.mac.com/nikephoros/oha/index.html
7ロマン・ギルシュマン岡崎敬, 糸賀昌昭, 岡崎正孝(訳)イランの古代文化平凡社1970
8井筒俊彦(訳)コーラン岩波文庫1957
9牧野信也(訳)ハーディス中公文庫2001
10フィリップ・ヒッティ岩永博(訳)アラブ人の歴史講談社学術文庫1982
11辻直四郎, 蒲生礼一(編訳)インド・アラビア・ペルシア集筑摩世界文学大系1974
12シャーロット・ゲスト(編)中野節子(訳)マビノギオンJULA出版2000
13トゥールのグレゴリウス杉本正俊(訳)フランク史新評論2007
14ベーダ高橋博(訳)英国民教会史講談社学術文庫2008
15The Annales Cambriaehttp://www.fordham.edu/halsall/source/annalescambriae.html
16Celt Corpus of Electronis Textshttp://celt.ucc.ie/publishd.html
17北史 日本語化パッチhttp://www.geocities.jp/nya_san_nya/translate/north.html
18南史 日本語化パッチhttp://www.geocities.jp/nya_san_nya/translate3/south.html
19二十五史http://www.hoolulu.com/zh/
20金富軾井上秀雄訳(訳)三国史記平凡社東洋文庫1980
21舎人親王宇治谷孟(訳)日本書紀講談社学術文庫1988
22吉野裕(訳)風土記平凡社東洋文庫1969
23関雄二, 青山和夫アメリカ大陸古代文明辞典岩波書店2005
24ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳)文明崩壊草思社2005
25湯浅赳男文明の人口史新評論1999
26鈴木秀夫気候変化と人間原書房2004
27ミロスラフ・スティングル三輪晴啓(訳)古代インカ文明の謎佑学社1982