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古代文明の滅亡


1.そして歴史の歯車は大きく回り始める

この時代、ヴェスヴィオ火山でポンペイ滅亡時の噴火の1つ前にあたる噴火があり[1]、40km3ちかい量の火山灰を広域に撒き散らした。吹き出した火山灰の量からして、ヴェスヴィオ火山の噴火だけが原因ではないだろう。いずれにせよ、前1200年を目前にして地球全体が急激に寒冷化し、寒帯前線が急に南下してきた。この500年ほど前にも気温が急降下したことがあったが、あくまで変化が急なだけで、気温自体は概ね現在より高かった。しかしこの時はそれとは比較にならないほどの変化であった。例えば、この直前まで現在より2℃ほど気温が高かった中国や日本では、この頃を境に4℃ほど気温が落ち込み、現在より2℃ほども低くなったのである[2]。同じ頃、ノルウェーでは氷河がこれまでにない勢いで拡大し[2]、ハワイやオーストラリア南東部の山岳地帯では「周氷河現象」といって、地面が凍結する現象が起きた[2]ことも知られている。

図1:安田喜憲『縄文文明の環境』より。紀元前22世紀、紀元前17世紀、紀元前13世紀に気温が急落しているのが判る。

当然、ここまで気温が下がると、衣裳にも変化が現れた。ギリシアを例にとって見てみよう。

図2:イラクリオン博物館所蔵「百合の王子」。http://lemonodaso.exblog.jp/より図3:イラクリオン博物館所蔵「行列」。http://lemonodaso.exblog.jp/より

 ・図2:イラクリオン博物館所蔵「百合の王子」
 ・図3:イラクリオン博物館所蔵「行列」

上図に見えるように、ミノア時代、ギリシアの人々はほぼ半裸で暮らし、平屋根の家に暮らしていたが、この時代の寒冷化と、それに伴う寒帯前線の南下により、ギリシアは寒冷湿潤になったため、

図4:モーリス・バウラ『古代ギリシア』より。少年が教育を受けている所。図5:シキオナ考古学博物館所蔵「青年像」。http://lemonodaso.exblog.jp/より左図に見えるように、人々はヒマティオンという暖衣を着るようになり、降雨の増加に伴い、切妻屋根の家に住むようになった。

 ・図4:モーリス・バウラ『古代ギリシア』より。教育を受ける少年。
 ・図5:シキオナ考古学博物館所蔵「青年像」。

結局この寒冷化によって、寒帯前線は北緯35°まで南下し、それ以北は寒冷乾燥な気候に、それ以南は寒冷湿潤な気候になったという[3]。では、この寒冷化とそれに伴う寒帯前線の南下の結果、世界中で何が起こったかを見ていくとしよう。


2.海の民

その時(前1200年頃)には非ギリシア民とギリシア民が同時に、
異民族の住む土地を獲得しようという一種の衝動に駆られていた
[1]

当時のことを振り返って、紀元前後頃のギリシアの歴史家ストラボンはこう述べている。実に正鵠を射た言葉であった。ヨーロッパ北部は寒冷化にともなって湿潤化し、恐らくは豪雨に見舞われ、飢饉が蔓延した。更にそんな中、エルベ川河口のバジレイア島が水面の底に沈んだのである。住処を逐われたバジレイア島の住民(後世でいう「海の民」)は、飢饉で荒廃したヨーロッパ北部の土地を見捨て、サイスの神官ソンキスの言うように、民を(ナイル川が)窮地から脱却させて救ってくれる[2]というエジプトの地を目差し、南へと民族全員を連れて旅立った。後にドイツの牧師コールゲン・シュパヌートはその著書『北海のアトランチス』の中で、プラトンの伝えるアトランティスの侵攻とは、この時のものだったと比定しているが、本筋には関係ないので、また別の機会に別のところで触れるとしよう。

図6:ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動』よりバジレイア島の住民たちがその故郷を捨てた頃、東地中海の各地でも異変が起こっていた。エジプトは旱魃に見舞われ、他民族をして羨望の目を向けさせたナイル川の水位が徐々に減っていき[3]、サハラ砂漠のテヘヌー(リビア人)の国は年中焼かれ[4]、そこから最期の住民が追い出された。小アジアでもマネスの子アテュスが王の時にリュディア全土に激しい飢饉が起こった[5]り、ヒッタイトで飢饉が起こり、エジプトやウガリトに穀物の輸出を求め[6]たりし、旱魃の被害がまだそれほど出ていないエジプトの王はヒッタイトの国を存続させるために穀物を送らせた[7]という。

さて、「海の民」は行く先々で、飢饉のため祖国を見捨てた人々を糾合し、次第に巨大な軍勢にふくれあがっていった。彼等は当時ドナウ川流域に住んでいたイリュリア人やドーリア人を追い散らしたり、自軍に組み込んだりしてドナウ川を渡り、嵐のごとくミュケナイ文明の花咲くギリシアに迫った。危険を感じたギリシア各地の土侯たちは民衆及び彼等の家畜の少なくとも一部を退避させるための、壮大な塁壁を築く[8]ことでこの苦難をやり過ごそうとした。ボイオティア地方のグラー等がその代表例である。

図7:Googleマップを元に作成。 しかし、文献記録では見あたらないとはいえ、図6を見て判るように、土侯たちは領地が旱魃ないしは大雨に襲われている中、塁壁造りを強行したのである。当然、この後ミュケナイ諸国の国力は急降下し、攻め寄せる「海の民」がイストモス(コリント地峡)で待ち伏せるミュケナイ連合軍の裏をかき、ナウパクトスから大船団を組んでピュロスやミュケナイ、クノーソスといった主要都市を直接攻撃する[9]やいなや、空気を抜かれた風船のようにミュケナイ側の戦力は四散して消滅した。コドロス王が自分の生命と引き替えに守り抜いたアテナイ、内陸に位置し、侵入者をうまく懐柔できたアルカディア等少数の土地を除いて、ギリシアのほぼ全域が「海の民」やドーリア人の手に委ねられ、「海の民」侵入前夜(ヘラディックVB)に全部で320あった集落は、その後40(ヘラディックVC2)にまで落ち込んだ[10]。役人を含む政治に携わる人々もほとんどが飢えや疫病、海の民の襲来などに斃れ、クレタの線文字Aを元に作成されたギリシア最初の文字、線文字Bの知識は完全に失われ[11]、300年程後にフェニキア人からアルファベットを学び取るまで、所謂「暗黒時代」が続いた。

ギリシアを奪った「海の民」は次に、この時代製鉄技術を唯一知っていたヒッタイト帝国に向かった。この直前ヒッタイト帝国も飢饉と内乱によって危機を迎えていた。西方属州諸国やキプロスが叛乱を起こし、王シュッピルリウマU世の叔父クルンタも南部のタルフンタッシャで半独立状態にあり、玉座を要求していた王シュッピルリウマU世は自ら出向いてこの反逆者たちを制圧したが、脅威はこれだけではなかった。前述のように飢饉が起こったのである。それで、前述のようにヒッタイトはエジプトやウガリトに食糧援助を要請するしかなくなった。

危機が立て続けに起こる中、「海の民」がやってきた。ヒッタイトは属国のウガリトにまで援軍を要請した。曰く敵が無数に〔・・・〕我等に対して〔進撃?〕してきた。我等は兵力が足りない〔・・・〕。動員できるもの全てを捜し、我が許に送り給え[12]と。ウガリトの藩王はすぐさま集められるだけの兵士や艦隊をヒッタイト王の許に派遣した。ヒッタイトの大艦隊はルッカ(リュキア)に集結して「海の民」を待ち受けたが、この隙にがら空きになったウガリトに「海の民」の遊撃部隊の(複数の)敵船が来襲した。我が町々(ウガリト)は焼き払われた[13]のである。以前ヒッタイトからの援軍要請に応えてほぼ全軍を送り出していた事を、ウガリトの藩王は臍を噛んで悔しがり、(我が)国は打ち捨てられた[13]とさえ嘆いた。彼は近隣のアラシア(キプロス)やカルケミシュの藩王たちに援軍を要請したが、彼等の許にも「海の民」が既に迫っており、カルケミシュ王はそれどころではないとばかりに汝はしっかりと踏み止まらなければならない[14]と突き放し、アラシア(キプロス)の王は我が町も破壊されたのだ。汝もこのことを知るがよい[15]と返事しただけだった。唯一エジプトのメルエンプタハのみが援軍を送ったらしく、ウガリト市の一角からメルエンプタハ王のカルトゥーシュの刻まれた青銅の長剣一降りが出土した[16]という。しかしメルエンプタハ王にとっては遠くウガリトの危機よりも後述するようにリビア人の侵入の方が遙かに差し迫った危機であったから、その援軍もごく少数に止まった。

図8:ハットゥサの焼土層。クルート・ビッテル『ヒッタイト王国の発見』b絵4より。同じ頃、ヒッタイト帝国本土も三方向からの攻撃を受けていた。「海の民」はルッカ(リュキア)の傍を通り抜け、アラシア(キプロス)を攻めて寝返らせ、本土に攻め込もうとし、アラシアの船は海で私(ヒッタイト王シュッピルリウマU世)と遭遇して、三度戦いが行われて、私は敵を強打した。私は海で敵の船を奪い、火を放った。しかし私が乾いた土地に来た時にアラシアからの敵が来襲して私に向かって何度も戦いを挑んできた[17]のだ。更に「海の民」に半ば故郷を逐われる形となったプリュギア人がトラキア地方から渡来して、トロイア地方とその一帯の支配者を滅ぼした後、その地方に住み着[18]き、黒海南岸に住んでいた、ヒッタイトの長年の宿敵カシュカ人も首都ハットゥサめがけて攻め寄せた。戦いが行われ、ヒッタイトの奮戦空しく、ハットゥサのあらゆる公的建物は・・・破壊された。大王のビュグ・カレも掠奪された後、徹底的に破壊された[19]という。ハットゥサではこの時の掠奪を窺わせる焼土層が確認されている[19]。この後の事についてはエジプトの記録に短く、ヒッタイトに始めとし、キズワトナ、カルケミシュ、アルザワ、アラシアに至るまでが彼等侵入者の手で荒廃させられた[20]と述べられているに過ぎない。

ミュケナイやヒッタイトが滅亡し、侵入者「海の民」に故郷を追われた、アカイア人、エトルリア人、リュキア人などを始めとする難民たちは、恐らくは「海の民」と同じ発想から豊かなエジプトを目差した。或いはそれ以上に大王ラメセスU世の死を奇貨として弱体化したエジプトを選んだのかも知れない。いずれにせよ、今となっては真相は闇の中である。同じ頃、リビアでも気候変動の影響で乾燥化が顕著になり、1年中テヘヌーの地は焼かれ[21]リビアの村々は荒廃し、通商も途絶え[21]ていた。リビア人達は次第に過酷になるサハラ砂漠を逃れ、家族ぐるみでエジプトを目差す。ここのどこかのタイミングでリビア人は小アジア・ギリシアの避難民と出会ったようだ。ここにこの破局を生き延びようとする者同士の「反エジプト大同盟」が結成され、彼等は大挙デルタ西境のペリレに迫った。彼等は当然家族ぐるみで移動ををしていたため、その軍勢は男女から構成され[22]ていた。このことがやがて彼等の破滅の基となる。

さて、迫り来る大軍勢に対してラメセスU世の後を受けてエジプトの玉座に登ったメルエンプタハは、即位した時既に60歳を越えるという高齢ぶりであったにもかかわらず、果敢に指揮を執り、家族ぐるみで移動していたため身動きの取りにくかった地中海・リビア連合軍を一挙に殲滅し、その戦闘の中で実に9376人の敵が殺された[23]という赫赫たる大勝利を収めた。しかし一方、エジプト国内では寒冷化ため、雹[24]や蝗[25]のため飢饉が起こり、更には疫病が蔓延し[26]、その隙に乗じて「モーセの出エジプト」が敢行され[27]、ユダヤ人がパレスティナへ脱出した。なお、この寒冷化の影響による気象異変はユダヤ人からは「モーセの奇跡」と考えられている。

リビア人は撃退したものの、この後ナイルの賜物であるエジプトでも寒冷化の影響が顕著になる。寒冷化の影響を受けて旱魃が起き、ナイルの水位が著しく低下したのだ[28]。エジプトは飢饉に陥り、エジプト史上最も輝いた第19王朝も女王タウセルトの許、崩れ去っていった。大ハリス・パピルスはこの時のことを次のように語る。曰く、エジプトの地は〔外から倒され〕、全てのエジプト人は等しく彼の力の前に権利を〔喪い〕、何年もの間にわたり首長なしの状態が続いた。エジプトの各地に大小の土侯が並び立ち、貴賤を問わずその隣人を殺し合った。その後、なにもない空しい年が来て、ヤルスというシリア人が酋長として彼等を治めた。彼等はエジプト全土に貢納を課し、仲間達と語らってエジプトの土地と財産を奪い取った。彼等は神々を人のように扱ったため、神殿には何も捧げられなくなった[29]というのだ。先の『イプエルの訓戒』を彷彿とさせるような恐ろしい内容である。しかしこの時はセトナクト王の活躍で第20王朝が始まり、中間期に突入することだけは避けられた。

そのすぐ後、セトナクト王からバトンタッチを受けたラメセスV世は、その名に恥じずエジプトの最後の偉大なファラオだった。彼の治世期間はおよそ30年を数えるが、彼の施政方針は一貫して祖国防衛であり、それは当時の激動の国際情勢をどのようにして乗り切り、偉大な祖国エジプトの栄光をいかに守り抜くかを模索する毎日だったといえよう。そしてそれを、彼は見事に果たしたのであった。

この時代エジプトはまさに(原初の)諸王の代より絶望的な難局に晒されていた[30]のである。まず、彼の即位5年目にリビア人がデルタ東部に侵入し始めた。しかし前回と全く同じパターンで彼等は撃退され、多分に誇張も含まれていようが、テメフーの民は四散し、メシュウェシュ人は彼等の国に封じ込められ、その地の植物は根こそぎになり、生存者はいなく[31]なる程の大勝利を収めて、敵を撃退した。

しかし本当の試練はここからだった。前のリビア人侵攻から僅かに3年、今度は以前ミュケナイとヒッタイトを屠ったペレセト、チェケル、シェケレシュ、ダヌナ、ウェシェシュの(諸族)連合・・・がこの大地(エジプト)の周縁部に至るまでの地を手に入れ[32]てエジプトに侵入してきたのである。この時もラメセスV世は果断だった。彼はまずエジプト軍を二手に分け、海軍には敵をナイル川へとおびき寄せ指す一方、自らは陸軍を率いてシリアのザヒに向かい、これまた家族ぐるみで動いていた「海の民」の陸戦隊を撃破し、返す刀でナイル川に押し寄せつつあった「海の民」の大艦隊に襲いかかった。結果「海の民」の戦士は狭いナイル川で陸海から挟み撃ちに会い、殺されて彼等の船の船首から船尾に至るまで死骸の山を築い[33]て敗れ去った。

この7年後にはリビア人が三度エジプトを攻めたが、三度家族ぐるみで動いて身動きが取れなくなっている所を狙われ、呆気なく敗退した。しかし三度に及ぶ外敵侵入から祖国を守り抜いたラメセスV世も、寒冷化には勝てなかった。前にもナイルの水位が低下したことには軽く触れたはずだが、この時代にはそのせいで慢性的な食糧不足が起き、穀物価格が上がってインフレがひどくなり、食糧支給の停滞から史上初のストライキが起こった[34]のだ。ラメセスV世が死ぬと、食糧危機はどんどん加速し、ディル・アル・メディナのパピルスやオストラコンはその物価上昇の様を如実に語っている[35]という。時が経つにつれ、事態は更に悪化していった。ラメセスZ世の頃には食糧の値段が上昇し続け、人々は金を得ようとして寺や墓を掠奪した。ある年はハイエナの年と呼ばれた。これは誇張もあろうが、文字通り真実であっただろう。非常に多くの人々が死んだので、死体を埋めるのが間に合わず、ハイエナの餌食となった[36]からであるというのだ。

以後エジプトの国運は鰻登りの食料価格とは対照的にひたすら下降の一途を辿る。そして第20王朝の諸王の寄進で力を付けたアメン神官団がヘリホルの許分離独立するに及び、エジプトは遂に第3中間期に突入していく。以後エジプトは二度とかつての栄光を取り戻すことがなかった。


3.エラムとアラム

図9:メソポタミアと北緯35°線。エジプトが最初に「海の民」の攻撃を受けたまさにその頃、メソポタミアでも風雲は急を告げていた。トゥクルティ・ニヌルタT世率いるアッシリア軍が長駆バビロンを攻略したのである。これまでには考えられない大事件であった。筆者はこの時世界的に起こっている気候変動のために、北緯35°以南のメソポタミア南部が破滅的な乾燥に襲われ[1]、バビロニアの国力が大いに衰え、アッシリアの餌食となってしまったのではとも考えるが、寡聞にしてその直接的証拠を示すような碑文史料は眼にしていない。

同じ頃、これまた破滅的な乾燥化に追われてか、ザグロス山脈南部からエラム人がシュトルクナフンテの指揮下大挙バビロニアに侵入した。バビロニアは北と東の二方向から挟み撃ちにされたのである。しかしこのことは逆に当時バビロニアの支配階級にあったカッシート人と被支配階級のバビロニア人の関係をこれまでになく親密なものにさせたようだ。ニップルを中心に蜂起したカッシート・バビロニア連合軍はバビロニア全土から、エラム、アッシリア両軍を追い出し、アダドシュムスルを王に立ててバビロニアを蘇らせることに成功する。

アッシリアは報復に出ようとしたが、折から「海の民」がヒッタイトを葬り去り、レヴァントを荒廃させ始めたので、これまで深く依存していた原材料供給地を失ってしまった。この時代はアッシリア・バビロニア共に相手の領内に攻め入るだけの力はなく、なにやら間の抜けた平和がメソポタミアに広がっていた。

しかしザグロス山脈での旱魃が激化すると、窮地に陥ったエラム人は、王シュトルクナフンテの指揮下再度バビロニアに襲来した。最早バビロニアに自衛能力はなく、首都バビロンは陥落し、有名なハンムラビ法典を刻んだ石碑や市の象徴とも言えるマルドゥク神像までもが掠奪され、エラムの首都スーサまで持って行かれた。この後、バビロニアはネブカドネザルT世の下で最後の輝きを放ち、南メソポタミアからエラム軍を追い払い、逆にエラム領内を荒らしさえした。しかし彼はいささか調子に乗りすぎたようだ。彼はエラムから戻ると返す刀でアッシリアを攻めたのだが、逆にバビロンそのものを占領され、ここにカッシート朝バビロニアはその終焉を迎えたのであった。

しかし勝ったアッシリアも徐々に苦況に陥っていく。紀元前1159年、先のヴェスヴィオ火山に続いてアイスランドでヘクラ火山が大噴火を起こした[2]のだ。今度はヴェスヴィオ火山とはとても比べものにならないような大噴火であったらしい。このためアッシリアは未曾有の豪雨[3]に見舞われ、全土に住民が人肉を食べ合わねばならぬ程に苛烈になった飢饉[4]が蔓延した。そこへ乾燥化を逃れてアラビア半島から流入してきたセム系のアラム人やカルデア人がやってきたのだ。アッシリアの国土は攻略され、更にアッシリア・アラムの両者の飢饉に拍車がかかり、今度は疫病が発生し、アラム人とアッシリア人の双方が大量に死亡した[5]。以後メソポタミアは紀元前900年頃まで完全に立ち直ることはなかった。


4.さらばインダス文明

図10:インダス河畔の過去7000年の降水量変化。鈴木『気候と文明』より。前1700年頃のジューカル人侵入の後もインダス文明は東パンジャーブを中心に存続していた[1]。しかし同じ頃、インダス河畔の諸都市もこれまでで最大級の危機に直面していた。寒冷化に伴い、かつてこの上空を通過していた季節風が南偏[2]したため、図10に見えるように、前1500年頃インダス河畔に年500mm弱あった降水量がこの頃瞬く間に急降下し、前1000年頃にはほとんど雨が降らなくなった[3]ようだ。この乾燥は破滅的なもので、インダス河畔は巨大な砂丘が動き始めるという程の状態[4]に陥り、これを裏付けるかのように、インダスの塩湖の底に溜まっているガマ属の花粉もこの頃を境に急激に減っているという[5]

往時インダス文明は交易などに印章というものを使っていた。その中には上に示したように、現在インダス河畔にほとんど見られない猛獣が多数描かれている。元考古学者モーティマー・ウィーラーはこのことを取り上げて、インダス文明期におけるインダス流域の全体としての動物相はなかなか変化に富んだものであるが、とても乾燥地帯に変わるとは思えないようなジャングルや沼沢地の動物相に近い面もある[6]と評している。気候変動説を支持する心強い証左である。

いずれにせよ、インダス河畔は前1200年頃、破滅的な乾燥のために塩害が進行し、農地が重大な損害を受けていたことは間違いない。そんな中、同じ寒冷化に駆り立てられてアーリア人が攻め込んできたのである。ジューカル人とインダス人の共存していた社会はあっという間に崩壊していった。当時の寒冷化の有様についてはアーリア人の伝承の中にその証左が見られ、それによると彼等がインダス河畔に攻め込んだ時、蛇に見張られた水はパニ族の雌牛の如く牢の中に閉じこめられていた。閉ざされた水の穴、彼はそれを開けた。ヴリトラは雷や稲妻、雹を彼(インドラ)に投げつけ、彼の周りに霧を広げた[7]という。要は寒冷化のため旱魃が起こり、時たま水が降っても雹の形でしかほとんど降らなかったと言うことである。侵入者アーリア人はこれをインダス人(サンスクリットでは「ダーサ」)の神ヴリトラの仕業と考えたようだが、実際問題としてはインダス人もこの気象異変に苦しんでいたのであった。

アーリア人は、自衛能力をほぼ喪失していたインダス諸都市を瞬く間に攻略し、闇に住まうダーサの主たちを追い散らした[8]。ダーサ(インダス人)は故郷を追われ、大挙して南に逃れた。これが現在のドラヴィダ人である[9]という。なお、カースト制が形成されたのもこのことである。恐らくその形成原因は風土病を移されぬようにすることへの配慮だったと思われる[10]


5.殷周革命

古代中国の気候は驚く程温暖であったことが知られている。前1700年に気候が寒冷化して夏が滅び、殷が成立したのは先にも触れた通りだが、前1700年の寒冷化の後もなお、殷墟(現安陽)の気温は長江流域ないしはそれ以南に相当し、今日の安陽の気候よりも遙かに暑く湿潤であった[1]という。

図14:殷代における殷墟の自然環境。『NHKスペシャル 四大文明』より。故貝塚茂樹教授の調べによると、『詩経』国風に歌われた160篇中、3分の1に川や沼沢の光景が歌われている[2]といい、それを裏付けるように黄河流域各地で殷代の地層から今日では亜熱帯森林に生息する筈の麝香鹿や手長猿、竹鼠や虎、それに象などの動物の遺骸や水辺に生える蓮や葦などが遺存している[3]

さらに、殷代の卜辞を見ると、降雨を占っていない月はない。ということは1年中降雨のなかった月はない[4]のではないのであろうか。さらに、殷代の農業で播種や栽培は早いもので1, 2月、遅いものでも12, 13(陰暦)であったから、黍と稲については二期作も可能だったのではないか[5]と推測される。

図13:象の玉器。『NHKスペシャル 四大文明』より。図14:殷墟から発見された象の骨。歯形の分析から4〜5歳の子象であることが分かった。中国社会科学院・安陽工作站提供。

図15:「獲象」の2文字を刻んだ卜辞。落合淳思『甲骨文字に歴史を読む』より。 図16:象の生息北限の変遷。

更に驚くべきことにはこの時代には殷墟周辺に象が生息していたというのである。これについては図15のような卜辞での言及に始まって、婦好墓からも象をモチーフとした土器が出土し、さらに殷墟から象の死骸が出土したことから確実である。更に後代、秦代の百科全書とも称される『呂氏春秋』では殷による象の軍事利用についての言及がある。曰く、商(殷)の人は象を使って東夷の地で暴虐を働いた[6]というのである。要するに、象はどこかよそからつれてこられたのではなく、当時黄河流域に普遍的に住んでいたというのである。以上のようなことからして、殷代は現代よりも遙かに温暖で、年平均では2℃、1月の平均気温では3〜5℃現在よりも高かったことが推定される[7]のであるという。

しかし紀元前1159年凡ては破局へと向かった。ヘクラ火山が大噴火したのである。この時、中国では10日間空から灰が降り、雨は鼠色に変わ[8]り、その後気候は急激に寒冷化していく。このため6月には雪が1尺以上積もり、霜は穀物を枯らせた[9]というのだ。寒冷化に続いて大旱魃が中国全土を襲った。後年では黄河が涸れて殷王朝が滅んだ[10]とさえ言われるようになる程であった。

この旱魃の被害を受けたのは殷だけではなかった。古来殷と友好関係を保っていた南方や当方の夷系の所属がにわかに騒然となってくる[11]のである。殷の最後の王紂はその治世に何回も叛乱した夷系諸族討伐のために奔走する。一方、西の方岐山では戎狄の風俗を卑しいとして退け、初めて城郭や家屋を築[12]いた周族が大いに飢えた[13]のである。周族の末裔たる漢の指導の下書かれた『史記』によるとこの当時周は殷の許に使え、殷の最後の王紂が妲己に誑かされて暴虐の限りを尽くしたことになっている。しかし、実際に甲骨文では未だに妲己の名は確認されず、それどころか紂王は逆に信心深い王でさえあった[14]という。やはり歴史には勝者の声だけが残りがちであると見える。そもそも、先に『史記』から引用した通り、周族がこのころ初めて城郭や家屋を築いたということからしても、彼等は本来は中原にいなかった侵入者で、いわば彼等が軽蔑する西戎の一派であったのではないかという思いを禁じ得ない。

話が脇道に逸れてしまった、元に戻そう。伝承によるとこの頃周は凶作だったが、殷を撃破すると豊作になった[15]という。甲骨文の史料も加味して考えると、どうも彼等は紂王が夷系の人方遠征に向かっていた隙をついて挙兵したらしい。隙をつかれた殷は呆気なく崩壊し、周王朝がここに正式に成立した。しかし武王が死ぬとまた寒冷化が顕著になり、秋に〔穀物が〕大いに稔ったが、未だ刈り入れをしていなかった。〔その時に〕天が雷を轟かし電を光らせ、その上に風を吹き荒れさせた。穀物は悉く伏倒れてしまい、大木は悉く根こそぎになってしまった[16]ということも起こる。その後周初の諸王は後世儒家から理想とされるに至ったが、黄河流域から破壊的なスピードで森が消え始めたのもまたこの頃であったということをお忘れなきよう。


6.オーストロネシア語族の飛翔

周が殷を妥当したことによってどうやら玉突き状に民族移動が起こった[1]らしい。北から人口圧がかかり、それに押し出されるようにしてポリネシア人は海に出たようだ。

図17:ポリネシア人の双胴船ポリネシア人がどのようにして太平洋全域に広がり、西は台湾から東はイースター島まで、北はハワイから南はニュージーランドまで広がったかは長らく謎とされてきた。一つには欧米人以外にこんな巨大航海が出来るはずがないと言う学者の先入観というか優越感があったせいもあるのだが、実際問題としてポリネシア人は驚くべき航海技能を持つ民族だったのである。

彼等は積雲を目印に島を捜した。見つからなかったら野垂れ死にではないかとも思えるが、読者の皆様、赤道付近は貿易風が卓越する東風帯であることにご注意を。彼等は故郷から西へ進んでいるので、もしも途中島が見つからずに食糧が尽きても、いつも吹いている東風に乗れば容易に本拠に帰ってくることが出来る。こうしてポリネシア人達はたやすく太平洋を横断することが出来たのであった。


7.新大陸では

新大陸でもこの頃寒冷化に伴って、カンザスやアルゼンチンを中心に大旱魃が起きつつあった[1]。カナダでは乾燥化のため、大規模な森林火災が起こり、森林に依存して生活していたインディアンたちが大挙して南下し、五大湖周辺で大混乱が生じた[2]という。

一方マヤでは旱魃のため、改めて水の必要性を痛感したのか、この頃から突如として水の神中心の宗教が生じている[3]


8.出典・注釈

1.そして歴史の歯車は大きく回り始める

  1. ^ 国立天文台編『平成16年度版 理科年表』
  2. ^ 鈴木秀夫『気候の変化が言葉を変えた』
  3. ^ 鈴木秀夫『気候変化と人間』

2.海の民

  1. ^ ストラボン『ギリシア・ローマ世界地誌』12.8.4
  2. ^ プラトン『ティマイオス』22D
  3. ^ ブライアン・フェイガン『古代文明と気候大変動』
  4. ^ イスラエル碑11
  5. ^ ヘロドトス1.94
  6. ^ ウガリト王へ出された穀物輸送命令
  7. ^ 大カルナク碑文24
  8. ^ ジョン・チャドウィック『ミュケーナイ世界』
  9. ^ 当時の戦闘の詳細については、ストラボン、パウサニアス、ポリュグアイノスらに詳しい。
  10. ^ 安田喜憲『文明の環境史観』
  11. ^ ジョン・チャドウィック『ミュケーナイ世界』
  12. ^ ヒッタイト王からウガリト王への援軍要請
  13. ^ ウガリト王アムルナピからシュッピルリウマU世への手紙 ラス・シャムラ出土粘土板20.238
  14. ^ カルケミッシュ王からウガリト王アムルナピへの手紙
  15. ^ アラシア王からウガリト王の手紙
  16. ^ フィリップ・ファンデンベルグ『ラメセスU世』。しかしこの剣について調査したシュフェルはこれがエジプトからの要請に応じてウガリトで造られた剣であるという異説を唱えている。
  17. ^ キプロス島の戦い
  18. ^ ストラボン12.8.3
  19. ^ クルート・ビッテル『ヒッタイト王国の発見』
  20. ^ メディネト・ハブ碑文3.16〜17
  21. ^ イスラエル碑11
  22. ^ カイロ石柱1
  23. ^ 大カルナク碑文58
  24. ^ 『旧約聖書』出エジプト記9.1〜12
  25. ^ 『旧約聖書』出エジプト記9.13〜35
  26. ^ 『旧約聖書』出エジプト記10.1〜20
  27. ^ マッカーター『最新・古代イスラエル史』
  28. ^ フェイガン『古代文明と気候大変動』
  29. ^ 大ハリス・パピルス7.75.3〜5
  30. ^ メディネト・ハブ碑文2.21
  31. ^ メディネト・ハブ碑文2.41〜42
  32. ^ メディネト・ハブ碑文3.18
  33. ^ メディネト・ハブ碑文3.24
  34. ^ 吉成薫『エジプト王国三千年』
  35. ^ クレイトン『ファラオ歴代誌』
  36. ^ 湯浅赳男『文明の人口史』

3.アラムとエラム

  1. ^ 安田喜憲『縄文文明の環境』
  2. ^ 梅原猛『火山噴火と環境・文明』
  3. ^ マッキーン『バビロン』
  4. ^ マッキーン『バビロン』
  5. ^ マッキーン『バビロン』

4.さらばインダス文明

  1. ^ ホークス『古代文明史』
  2. ^ マンデラ『幻のインダス文明』
  3. ^ 鈴木秀夫『気候の変化が言葉を変えた』
  4. ^ 鈴木秀夫『気候の変化が言葉を変えた』
  5. ^ シンによる調査結果。
  6. ^ ウィーラー『インダス文明』
  7. ^ 『リグ・ヴェーダ』1.32.13
  8. ^ 『リグ・ヴェーダ』2.20.7
  9. ^ 鈴木秀夫『気候の変化が言葉を変えた』
  10. ^

5.殷周革命

  1. ^ ウィットフォーゲル、胡厚宣などの説。
  2. ^ 『NHKスペシャル 四大文明』
  3. ^ 『NHKスペシャル 四大文明』
  4. ^ 胡厚宣説。
  5. ^ 末次信行『殷代気象卜辞の研究』
  6. ^ 『呂氏春秋』6.5
  7. ^ 吉野正敏『気候変動に歴史を読む』
  8. ^ 石弘之『火山噴火と環境・文明』
  9. ^ 石弘之『火山噴火と環境・文明』
  10. ^ 左丘明『国語』1.9
  11. ^ 白川静『金文の世界』
  12. ^ 司馬遷『史記』1.4
  13. ^ 『今本竹書紀年』3.29.35
  14. ^ 陳舜臣『中国の歴史』
  15. ^ 『春秋』5.19.5
  16. ^ 『尚書』11.3

  1. ^ 鈴木秀夫『気候の変化が言葉を変えた』

  1. ^ 鈴木秀夫『気候の変化が言葉を変えた』
  2. ^ 鈴木秀夫『気候の変化が言葉を変えた』
  3. ^ 鈴木秀夫『気候の変化が言葉を変えた』
  4. ^
  5. ^
  6. ^
  7. ^
  8. ^
  9. ^
  10. ^
  11. ^
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  15. ^
  16. ^
  17. ^
  18. ^
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7.参考文献


1J.H.BreastedAncient Records of Egypt 1〜5Univ of Illinois Pr 2001
2杉勇, 屋形禎亮(編訳)古代オリエント集筑摩世界文学全集2000
3ヨハネス・レーマン内野隆司(訳)ヒッタイト帝国佑学社1979
4クルート ビッテル大村幸弘, 吉田大輔(訳)ヒッタイト王国の発見山本書店1991
5日本聖書教会(訳)新共同訳聖書日本聖書教会1987
6チャドウィック安村典子(訳)ミュケナイ世界みすず書房1983
7トゥキディデス久保正彰(訳)戦史岩波文庫1966
8パウサニアス馬場恵二(抄訳)ギリシア案内記岩波文庫1992
9ヘロドトス松平千秋(訳)歴史岩波文庫1971
10タキトゥス泉井久之助(訳)ゲルマニア岩波文庫1979
11ヘシオドス松平千秋(訳)仕事と日岩波文庫1986
12カエサル近山金次(訳)ガリア戦記岩波文庫1942
13ストラボン飯尾都人(訳)ギリシア・ローマ世界地誌龍渓書舎1994
14パウサニアス飯尾都人(訳)ギリシア記龍渓書舎1991
15ディオドロス飯尾都人(訳)神代地誌龍渓書舎1999
16ブライアン・フェイガン東郷えりか(訳)古代文明と気候の大変動河出書房新社2005